日本という文脈を研究にどう生かすか

研究者は多かれ少なかれ、一般性の高い発見や理論をうちたてたいという希望を持っているだろう。なぜなら、一般性・汎用性の高い理論や法則であるほど、応用範囲が広いからである。ニュートン万有引力の法則がもっともわかりやすい例だろう。


しかし、日本という文脈で研究している以上、そこから得られた研究成果が、一般化可能であることを示すのは難しいと思われる。それは日本という特殊な文脈での発見だから、直接的にアメリカやその他の世界でも同じことが言えるわけではないですよね。といわれると反論しずらいのは確かである。不思議なことに、(私たちの分野では)アメリカで行われた研究に対してそういった指摘がされるのは稀なのに、日本や他国で行うと、「それはその国の文化が結果に反映されている可能性がありますね」というように、常に一般化可能性を批判されるリスクをはらんでいるのである。


例えば、日本の就職活動を研究対象として研究を行うとしよう。そうすると、日本の新卒の就職活動そのものが、世界的に見るとかなり特殊な部類に入るため、そこでなんらかの面白い発見が得られても、それを「日本での研究」という特殊性を超えたかたちで世界基準から評価してもらえるのかという問題が生じるわけである。


そこで、頭をひねって「逆に日本という文脈の特殊性を逆手にとったアプローチ」を生み出すことがとりわけ効果的であると考える。どういうことかというと、汎用性の高い理論や法則を研究しているのだけれども、アメリカなど他の国の文脈ではなかなか吟味することが難しいトピックについて、日本という特殊な文脈を対象とすることによって、なんらかの糸口が見出せそうである、というところを突くのである。


先の例でいえば、日本の学生の就職活動はたしかに世界的に見れば特殊であるけれども、だからこそ、その文脈で研究することによって、他の文脈では検証が難しい一般的な法則性について吟味することができるのではないかということになる。それは何かと聞かれれば、まさにいまそれが何なのかを検討している最中なのですと答えるしかないのだが。