人類社会に強いインパクトをもたらす経営学研究とは

経営学は応用学問であるため、経営学研究が社会に対して強いインパクトをもたらすことも期待されている。経営学だから企業経営の特定の分野・機能や企業業績の向上に役立てばよいというわけではなく、研究成果が幅広く人類社会の発展に貢献できるのであれば理想的である。むしろ、営利組織ではなく教育機関としての大学で行う研究であるならなおさら、企業経営の枠を超えたより良き社会の実現に貢献するべきであろう。では、そのような強いインパクトをもたらす研究をどのように実践すればよいのだろうか。Wickert, Post, Doh, Prescott, & Prencipe (2021)の論考を参考に考えてみよう。

 

まず、Wickertらが考える経営学もしくは「マネジメント」は、企業経営という狭い範囲にとどまらないものであることが重要である。行政や公共機関も、国家や社会の問題を解決するための「マネジメント」を行うし、NGONPOなどの組織もそうである。よって、実践に大きなインパクトを与える経営学研究とは、社会全般のさまざまな場面で活動する「マネージャー」の実践における物の見方考え方にインパクトを与える、すなわち、これまで以上に優れたマネジメントを実践するために、これまでの考え方の再考を迫るもの、新たな視点を提供するもの、マネジメントに関する既存の理論やモデルを修正したりするものであるということである。

 

上記のような視点からの強いインパクトをもたらす経営学研究を行ううえで、Wickertらは、「深く理解したい大きな問題、解決したい重要な問題を起点として研究を始めよ」「注目すべき重要な現象を見つけ出し、その現象理解を目的とした研究を推進せよ」という2点を強調する。つまり、理論から始めて、理論の欠陥や拡張を目指すというようなアプローチではなく、重要かつ大きな問題に駆動される研究、それを示す重要な現象に着目する研究が大切だというのである。深く理解したい大きな問題とは、例えば、社会の不平等はなぜ生じているのか、どうすれば解決することができるのだろうかといった、人類にとっても重要な問題である。注目すべき重要な現象とは、例えば、前者の理解したい重要な問題(社会の不平等)を具体的に表している特定の現象(組織内の男女差別など)のことである。

 

Wickertらは、経営学における理論の構築や理論の改善は、それ自体が「目的」なのではなく、社会における問題や現象をよりよく理解するための「手段」であると主張する。よって、重要かつ大きな社会問題(例、サステナビリティ、環境問題、平等、ダイバーシティ)やそれに付随する特定の現象の深い理解や問題解決に向けた意思決定やアクションにとって、既存の理論が適切なのか、欠陥や不備はないか、別の理論が当てはまるのではないか、あるいはまったく新しい理論や視点が必要なのではないかといった問いを持ち、それらに駆動された研究が、強いインパクトをもつ研究成果につながるのだと考えられるわけである。

 

研究を通して社会課題の解決などに向けた実践にインパクトを与えるためには、研究の内容が実践家に行動を促すような要素を含んでいる必要があるとWickertらは指摘する。例えば、実践家が、論文で扱われているテーマや課題について提示された理論やモデルを実践で試してみようと思わせるようなもの、つまり、実践家が研究や論文から何を、どのようにすれば良いのかの示唆を得て、それを実際に使ってみようとさせるものが望ましい。学術論文においてそのような要素を含んでいるものも良いし、さらに、実践しやすくするように、学術論文の内容を実務家向けの雑誌や学術論文とは異なるフォーマットによる著作として翻訳することによって実践をさらに促進していくことも有用だという。

 

またWickertらは、実践家とのコミュニケーションを通して社会に対して強いインパクトをもたらす論文を執筆する際には、学術論文同士の引用で閉じてしまうのではなく、実務雑誌からの引用をしたり、実務雑誌やテキストに引用されることを意識することを勧める。また、研究を進めるさいには、実践家とよく対話をし、実践家の話をよく聞くことも大切だという。学術成果がよくまとまったレビュー論文も、実務雑誌やテキストによく引用されるという。レビュー論文を執筆することは、それ自体が学術的に貢献すると同時に、実践家にも示唆を与えるものとなるわけである。学術として社会に対してインパクトを与えるためには、学術と実践とのギャップを埋めていくことが大切なのである。

 

経営学研究が、さまざまな社会課題を解決し、良い社会を実現させていくための公共政策などに対してインパクトを与えていくことも期待される。そのためには、経営学の研究が、政策立案における意思決定の役に立つようなエビデンスを提供することが有効である。サステナビリティ、環境問題、平等、ダイバーシティなど、経営学でも扱われる社会課題は、それ自体が公共政策の対象でもある。国家や政府が、最も適切な政策を立案し、実行できるような理論やエビデンス経営学から多く生まれ、提供されていくことも、社会に対して強いインパクトを与えることにつながるのである。

文献

Wickert, C., Post, C., Doh, J. P., Prescott, J. E., & Prencipe, A. (2021). Management research that makes a difference: Broadening the meaning of impact. Journal of Management Studies, 58(2), 297-320.

 

女性リーダーが直面する数多くの困難や障害をどう取り除くか

組織において、女性のリーダーは、男性のリーダーが経験しないような数多くの困難や障害に直面する。これが、企業における女性役員の割合、女性管理職の割合の少なさに大きく影響している。日本では特にこの傾向は顕著だと言えよう。このような女性リーダーに特有の困難・障害のほとんどは、企業社会、もしくは社会一般における女性に対する偏見やステレオタイプに起因するものである。女性に対する偏見やステレオタイプは、意識的に行われるものもあるが、無意識的に生じるものもある。無意識的に生じるものは、偏見やステレオタイプを用いて女性を見る人々が無自覚であるがゆえに克服するのがより困難であるとも言える。偏見やステレオタイプに基づく女性リーダーに対する障害は、リーダーとしてのポテンシャルを持った女性や既にリーダーとなった女性の内面にも影響を与え、それがリーダーとなることを志望する女性の数を減らしているという悪循環に陥っている。

 

では、女性リーダーの育成を活発化し、女性リーダーの割合を増やしたい組織、そして女性リーダー自身は、上記に挙げたような困難・障害をいかにして乗り越え、悪循環を断ち切り、逆に、困難や障害を排除してサポートを増やすことでリーダーを志望する女性を増やすといったような好循環を生み出すには具体的にどうすれば良いのだろうか。以下において、Galsanjigmed & Sekiguchi (2023)のレビューに沿って説明を試みる。本題に答える前に、まず、女性リーダーが直面する困難や障害にはどのようなものがあるのかを整理しておこう。女性リーダーが直面する困難や障害には、女性リーダーを取り巻く環境に起因する外的要因と、女性本人の意識に起因する内的要因がある。どちらも、社会における女性に関する偏見やステレオタイプ(例、女性は家庭を守る存在である、女性はリーダーには向いていない)に基づくものが大半である。Galsanjigmed & Sekiguchi (2023)は、以下のように整理している(詳細はオープンアクセスである当該論文を参照のこと)。

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外的要因

  • ガラスの天井(glass ceiling)
  • 粘着フロア(sticky floor)
  • リーダーシップの迷宮(leadership labyrinth)
  • 女性リーダーシップ・プロトタイプ(female leadership prototypes)
  • 管理職といえば男性という連想(think manager-think male)
  • 危機といえば女性という連想(think crisis-think female)
  • ダブルバインド(bouble bind)
  • 反発(backlash)
  • リーダーシップ開発機会の欠如(the lack of leadership development)
  • ガラスの崖(glass cliff)
  • 女王蜂シンドローム(queen bee syndrome)

内的要因

女性は、企業などの組織に入社し、キャリアを始める瞬間から既に偏見やステレオタイプに起因する困難や障害にさらされている。「ガラスの天井」は、女性が管理職などに昇進するのを妨げ、「粘着フロア」は、女性を組織の底辺に粘着テープのように吸い付けて彼女たちがキャリアの階段を上昇していくことを妨げる。女性が努力や能力によってガラスの天井を突き破ってリーダーとなっても、リーダーの階段を登りより高いレベルのリーダーに昇進しようとすればするほど、彼女への風当たりは強くなる。つまり、さらに強い困難や障害が降りかかってくる。1つ乗り越えても次々とまたやってくる障害。その度に右往左往し、行き止まりとなれば戻って別の道を探さねばならないなど、まさに「リーダーシップの迷宮」を彷徨うことになる。挙句の果てには、晴れてトップマネジメントに近づいても、組織内で「危機といえば女性という連想」という思考が作動し、組織が危機に陥った時に女性がリーダーとして任命されやすくなるため、組織の失敗と共に自分自身もキャリアの階段を転げ落ちてしまうという「ガラスの壁」の餌食となりやすい。

 

このように、女性リーダーを取り巻く環境からくる強い風当たりは、女性リーダーもしくはリーダーになる前の女性のメンタリティやマインドセットに大きな影響を与える。そもそも、男性だったら経験することがないようなそんな困難や苦労を自ら買ってでもリーダーになりたいか?そんな困難を経験しながらリーダーになるなんて、それに伴って諦めなければならない多くの代償を考えると割に合わないではないか。そんな無理をするくらいならば、リーダーにならずに仕事とは別の場所で有意義な人生を楽しみたい。このように、外的要因による困難や障害が、女性自身が自信をなくし、自分の実力を過小評価し(インポスター症候群)、リーダーとしてのキャリアに消極的となったり諦めの境地となり、結局リーダーを目指さなくなってしまうという内的要因を助長させる。そして、そういった女性の消極性が、組織から見てリーダー候補として女性を選ぶ機会を減らし、女性に対してリーダーシップ教育を施すという機会をも奪ってしまう。これがますます、女性はリーダーに向かない、リーダーを指向しないといったような偏見やステレオタイプを強化してしまうという悪循環を形成している。この悪循環が継続するため、実社会において、女性取締役や女性管理職が増えていかないという現実につながっている。この悪循環を断ち切り、好循環を生み出すことが必要である。

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では、女性リーダーを取り巻く悪循環を断ち切り、好循環を生み出すにはどうすればよいのだろうか。まず、組織がやらなければならないのは、意識的もしくは無自覚的に発動している女性への偏見やステレオタイプを明るみにし、それを1つ1つ丁寧に取り除いていくことである。とりわけ無自覚的に組織のカルチャーや規則、働き方にそれらが染み付いている場合には、少なくとも組織の構成メンバーに「気づき」を与えることが重要である。社会一般や組織内に蔓延している偏見やステレオタイプに気づくことが、それを除去していくための最初のステップである。無自覚的に組織のカルチャー、規則、働き方などに影響を与えている偏見やステレオタイプに気づいたならば、それに起因して男女不公平・不平等を生み出していると思われる具体的なルールや施策を特定し、その改善を図るべきである。それは、採用から始まり、配属、勤務体系、勤務体系、業務遂行スタイル、昇進・昇格ルール、教育研修の対象や内容などのマネジメント施策や働き方から、オフィスのレイアウトや施設の詳細など、多岐にわたることであろう。しかし、1つ1つ確実に改善していくことが大切である。

 

次に、組織は、経営上位層、すなわち取締役レベル、トップマネジメントレベルの女性の数を増やしていくべきである。経営上位層の女性を増やすことで、その下位層の女性の数が増えるようなドライブをかけるのである。もちろん、これは卵が先か、ニワトリが先かの議論になりかねない。すなわち、組織の改革が進み、下位層の女性リーダーが育ち、数が増えていかなければ、経営上位層の女性の数など増やせないといった反論である。もちろんその理屈は一理あるが、上位からのトップダウンとして女性リーダーの数を増やしていくことの経営に対する効果も多く考えられるので、ボトムアップトップダウンの挟み撃ちで推進していくべきである。トップダウンだけでも、ボトムアップだけでも改革の勢いはつかず、失速してしまうからである。トップマネジメントが変わるということは、企業や組織全体が大きく変わろうとしているというシグナルにもなるのである。そのシグナルが、ボトムアップによる組織の改革を加速することにつながる。

 

組織内の環境要因のみならず、女性自身の内面に起因する障害を取り除くためのサポートも必要である。まず、女性がリーダーシップ教育を受けたりリーダーになるための経験をする機会が男性と比べて少ないという傾向を是正し、女性に対して積極的にリーダー教育を行うことが望ましい。女性に対するリーダー教育、リーダーに必要な経験、リーダーとしてのマインドセットを醸成し、女性自身がリーダーになるためのスキルと自信を高め、リーダーとしてのキャリアを指向するようにサポートすることが重要である。リーダーとしてのキャリアを志向する女性の数が増えることで、リーダー教育を受ける女性の数も増え、それに応じて組織内における女性リーダーに対する風当たりも弱くなるといったように、外部要因も改善され、外部要因の改善がさらにリーダー候補となりうる女性の自信や積極性を高めるという好循環が生まれることが望ましい。

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上記にも関連するが、女性が、自らの強みや特徴を如何なく発揮することができるようなリーダーシップスタイルを考慮し、提案していくことも望ましい。一般的に、リーダーのイメージが男性的である、あるいは、男性的なリーダーシップスタイルが最も効果的にチームや組織を引っ張ることができるという偏見やステレオタイプが社会や組織にあるために、女性が、自分自身の性格とはそぐわない男性的なリーダー行動を取ろうと無理をしてしまって燃え尽きてしまったり、その不自然さに異性や同性からの反発を受けることも考えられるからである。もちろん、男性的なリーダーシップスタイルや、女性的なリーダーシップスタイルも存在するであろうが、そのようなステレオタイプに縛られることなく、男女問わず自分自身の強みや特徴に最も適したリーダーシップスタイルを取ることが大事なのである。それを阻むような組織カルチャーや偏見、ステレオタイプを除去することも重要なのである。

文献

Galsanjigmed, E., & Sekiguchi, T. (2023). Challenges Women Experience in Leadership Careers: An Integrative Review. Merits, 3(2), 366-389.

https://doi.org/10.3390/merits3020021

 

 

 

探索的因子分析の直感的理解

因子分析はいわば心理統計のハイライトであり、経営学においても、心理的アプローチをとる場合、非常に重要な分析である。しかし、とりわけ探索的な因子分析を理解するためには線形代数の知識が必須であるため、文科系の人々の多くは理解の途中で挫折してしまうことが多いようである。そこで今回は、数学的な説明は分かりやすい説明がなされている小杉(2022)を参照してもらうこととし、数学的な説明を大胆に捨象して直感的に探索的因子分析を理解することを試みる。

 

そもそも因子分析とは何か。これは小杉によれば「心の理論」とさえも考えることができるほど重要な分析である。例えば、採用試験において、志願者の性格を把握するために100問からなる性格テストに答えてもらったデータがあるとする。そのデータは、その人について100種類の性格を測定しているのではない。100個の反応の背後に、ごく少数の潜在的性格因子が隠れており、それが本当に知りたい「性格」だと考えるのである。それは、例えば外向性とか神経質とかである。この場合、人間の性格という「心の特徴」を数量的に理解しようとする方法としての分析を考えるということになる。

 

では、実際100個の質問で測定する性格テストの中に、幾つの潜在因子が隠れているのか。3つか、4つか、5つか。これに答えようとする分析が因子分析であり、とりわけ得られたデータの構造に基づいて探索的に因子を見つけようとするのが探索的因子分析である。例えば200人に100問の性格テストをして得られたデータを使ってこの探索的因子分析を行うような場合を考えよう。このような探索的因子分析を行う上で決定的に重要な数学的概念が「分散共分散行列」とそれを標準化した「相関行列」、行列の「固有値」と「固有ベクトル」、そして「固有値分解」である。これは線形代数を学ぶことでクリアになるが、以下では数学的説明を大幅にスキップしながらポイントだけ説明しよう。

 

分散共分散行列とは、縦と横が同じ(例えば質問項目。100問ならば100行×100列)正方行列で、対応する項目のペアごとの共分散を成分として、対角成分は分散である(同じ項目同士の共分散=分散だから)。相関行列は、分散共分散分析と比べると、共分散の部分がそれを標準化した相関係数に置き換わり、対角成分は1に置き換わる(同じ項目同士の相関=1だから)。これら2つは標準化するかしないかの違いなので後者の方が情報が若干減るが、本質的にはほぼ同じである。研究で用いる変数間の相関行列は、変数の平均と標準偏差と合わせて論文で表で示すのが数量的研究では慣例となっているので、それをイメージすればよい。

 

これらの「正方行列」が因子分析では決定的に重要である。その理由は、十分なサンプルを仮定した場合は、この正方行列の中に、変数間の関係に関する「全ての情報」が含まれていると考えるからである。だからそれらの行列さえあれば必要な情報は全てそこから取り出せる。もう1つの理由は、正方行列には、固有値固有ベクトルというこちらも計算上決定的に重要な数学的原理が存在するからである。これらの概念を使って因子分析で行うことは、「全ての情報が含まれている分散共分散行列(あるいは相関行列)」から、知りたい潜在因子に関する情報を数学的操作によって抽出する」ということなのである。ここが最も重要なポイントである。

 

では、どのようにして、分散共分散行列(相関行列)から、潜在因子を抽出するのか。そこで用いられるのが、これらの行列の「固有値分解」である。その前に、「固有値」と「固有ベクトル」について若干説明が必要である。この2つはセットになっていて、特定の正方行列について、それに固有のあるベクトル(数値の組み合わせ)については、正方行列を掛けると、スカラー(行列ではない量のみ)を掛けたものと同じになるという不思議な性質である。固有値は、正方行列の項目の数だけ存在し、これを全て足し合わせると、正方行列の対角要素を全て足し合わせた値と一致する。

 

上記をもっと直感的にいうと、固有値というのは、正方行列に含まれている情報を、単なる量の情報に変換するもので、固有ベクトルはその変換が行われる時の(方向性を持った)数値の組み合わせで、正方行列の中に隠れている空間情報の1つの次元を示している。N×Nの正方行列の固有値は大きな値から小さな値までN個あることが分かっているので、分散共分散行列を固有値分解するということは、分散共分散行列の情報を、重要な(大きな量の)情報から順番に、分散共分散行列に潜んでいる潜在次元の情報と共にN個抽出する作業であると言って良い。

 

固有値の値をN個全て足すと、分散共分散行列の対角要素の分散を全て足した値と等しくなることが分かっている。その値はデータセットに含まれる分散の全てであるから、固有値の中で意味のある(大きな)値のみを抽出した場合、それが、データセットの全分散のどれくらいを説明できるのかを計算できる。逆にいうと、小さな固有値は意味がないので因子としてカウントしないとすると、それは、抽出した因子で説明できていない誤差分散を意味する。相関行列を用いた固有値分解で説明すると、固有値を大きな値から並べた際に1以下になっているものは、性格テストの1つの質問項目が含んでいる情報よりも小さい(なぜならば相関行列では1つの項目の分散は1に標準化されているため)ので、あまり意味のない情報だと言える。

 

上記のように、固有値の中でとても小さな値は、情報としては取るに足らない誤差だと解釈し、十分に大きな固有値のみを、適当な基準で抽出すると、それがデータセット潜在的に含まれている知りたい因子の数ということになる。冒頭の性格検査の例では、100問のテストの中に潜在的に含まれている因子が5つだと推定されるという感じである。よって、分散共分散行列(相関行列)を固有値分解するということは、何もしなければ100次元ある行列の空間情報から、意味のあるものから順番に4次元とか5次元とかまで空間情報を取り出すという作業で、その時の各次元の軸の情報を与えるのが固有ベクトルであり、その成分を、その因子による負荷(重み)がかかっている相対的度合いという意味で「因子負荷量」とも呼ぶ。

 

しかし、線形代数の数学的特徴として、上記の固有値分解を行った時の各固有値に対応する固有ベクトルの組み合わせは無数にある。そこで、固有ベクトルを、大きさは無視して次元の方向の情報だけを持っているものとして解釈し、かつ、回転行列というものを用いて、固有ベクトルの方向を回転させるという数学的操作ができる。その際、因子間が相関しないように(直交するように)回転する方法や、因子間の相関を仮定して回転させる方法がある。いずれにせよ、回転させることで、特定の因子と特定の項目とのつながりが強い形で解釈可能な組み合わせを作ることができる。このような操作を行い、意味のある因子の数について、解釈がしやすい回転を施したところで、探索的因子分析を終了する。

 

このような探索的因子分析の直感的理解を再度まとめると、分散共分散行列あるいは相関行列の中にデータセットの全ての情報が含まれると仮定した上で、その正方行列の中から、固有値分解と因子回転によって意味のある少数の次元からなる空間情報を抽出する作業を因子分析で行なったわけである。探索的因子分析では、分散共分散行列(相関行列)の空間情報から、N個の次元からなる別の空間情報に変換するが、固有値が大きな次元はそれが強調された座標軸となり、固有値の小さな次元は、それが小さく縮小され(データを解釈するのに意味を持たない)座標軸となるので、後者は無視して、強調される複数の座標軸のみからなる空間座標に変換する。

 

探索的因子分析によってデータセット(分散共分散行列、相関行列)から抽出された空間座標の上に、ここのケースをプロットすることが可能であるが、解釈がしやすいように、この空間座標をくるくる回転させて収まりが良いものを探し当てる。そうすることで、性格テストの例で言えば、受験者一人ひとりの位置(すなわち性格特性)は、その少数次元からなる空間上にプロットできる。その空間情報上の座標で表現される一人ひとりのスコアが因子スコアで、例えば外向性が○点、誠実性が△点というように計算される。ただ、実際の研究では、例えば外向性因子の負荷が高い複数の項目の平均をとって外向性のスコアとすることが多い。

文献

小杉考司 2022「心理学データ解析応用: RとStanで学ぶフリーで楽しい心理統計の世界」

 

「データを拷問にかけ自白させる」「セレンディピティ主義」の危険性

フランシス・ベーコンが言ったとされる有名な言葉に、実験とは「自然を拷問にかけて自白させること」だというものがある。自然科学は経験データとの整合性が必須なので、特定の法則性が自然に備わっているならば、その自然が自分でそれを語らざるをえない状況を人工的に作り出す、すなわち拷問にかける手段が実験だということである。一方、「セレンディピティ」も科学でよく語られる言葉である。例えば、パスツールが偶然カビからペニシリンを発見した例のように、偶然が偉大な発見につながったという逸話とともに、偶然を味方につけることの重要性が数多く語られている。

 

一般的に、これらの2つは、科学における美談として語られることが多い。つまり、科学を実践する際に模範とすべき行動や態度を表す言葉である。しかし、現代の経営学をはじめとする社会科学などにおいては、少し様子が違うようである。むしろ、研究における問題行動を戒める言葉として扱われそうな雰囲気を醸し出している。ビッグデータ時代の到来とともに、経営学においても多様なデータが習得可能になり、それらのデータを用いた実証研究が盛んに行われている中で、冒頭の2つの言葉になぞらえた「データを拷問にかけて自白させる」「セレンディピティ主義」が、適切な研究を阻害する問題行動につながりかねないという指摘が増えているのである。

 

例えば、Aguinis, Cascio, & Ramani (2017)はこれらの行動に警鐘を鳴らしているが、彼らが指摘する現象が、"Capitalization on chance" というもので、これは「何かいろいろとやっていると偶然結果が得られる」というような現象である。研究をしていれば、冒頭にあげたセレンディピティの例のように、偶然何かが発見されるということはありうる話である。むしろ、Aguinisらが問題視するのは、"Systematic capitalization on chance" というもので、偶然何かの結果が出るような研究方法を意図的に志向するということである。セレンディピティによって結果を得ることを意図的に志向するということで、これをセレンディピティ主義と呼んでみよう。

 

先に述べたとおり、現在は、大量の変数が入ったデータセットを作りやすく、かつ、様々な視点から高度な分析が可能な統計分析ソフトウェアも発展している。よって、研究者としては、とにかく大量の変数の入ったデータセットを作り、これこそが宝が埋め込まれた原石とばかりに、ありとあらゆる分析を統計ソフトにやらせるのである。AIであれば文句を言わずひたすら分析続けることも可能だ。まさに、何か結果がでるまでデータを回しまくる。「データを拷問にかけて自白させる」というのはこういった行為のたとえである。偶然、何らかの結果がでるまで拷問のようにデータを分析しつづける。そうすると、いずれは偶然に有意な結果が出たりなんらかのモデルがデータにフィットするだろう。そうしたら、それに基づいたストーリーを構成して論文を作成するという塩梅である。

 

このようにして作成された論文は眉唾であることは明らかである。偶然起こった結果だから、それが、経営学の法則性やメカニズムを表したものである可能性はかなり小さい。だから、仮にそのような結果をもとに論文を発表しても、誰もそれを再現できないということが起こりうる。なぜならばそれは特定のデータから偶然得られた結果にすぎないのだから。しかも悪いことに、経営学などのトップジャーナルでは、とにかく新規性の高い、革新的な理論や仮説の実証研究を求めている。すでに発表された論文の追試などの論文はトップジャーナルには掲載できない。よって、いったん論文が発表されれば、ほかの研究者がその妥当性を再検討するモチベーションはあまりわかない。

 

だとすると、いくらトップジャーナルといっても、再現性のない理論や仮説のコレクションになりかねなく、トップジャーナルの学術的価値が危機に陥ってしまうのみならず、信用できない誤った情報を実践家に伝えてしまう危険性もある。もちろん、そのような傾向を助長しているのが、大学などの研究機関や学会などの研究者コミュニティーであるわけで、トップジャーナルへの論文の掲載が賞賛され多くの大学での教員採用や教授昇進の基準になっているから、研究者は、経営現象そのものへの探求よりも、自分自身の昇進や名声への探求に論文作成のモチベーションが向かってしまう。直感を裏切るような仮説やそれを支持する結果、複雑だが面白いモデルなど、それらがデータ分析によって「偶然」見つかったならば、しめたとばかりに論文を作成し投稿するという行為を助長している。

 

ジャーナルへの論文掲載も"Capitalization on chance"すなわちセレンディピティ主義で、打てば当たるとばかりに、偶然論文がアクセプトされてしまうことを願って投稿しまくる。そうなると、ジャーナルあたりの論文の投稿数が肥大するので、間違って問題を含む論文を掲載してしまう可能性も高めてしまう。つまり、いろんな要因が相互に影響を与え合って、再現不可能な論文が量産される可能性を高めてしまっているのである。このような由々しき事態への反省と対応から、近年では、再現性を検討する研究の見直しと評価が進んでおり、これらの論文を専門的に掲載しようとするジャーナルの設立も増えてきている。その1つが、経営学のトップジャーナルの一角であるJournal of Managementの姉妹ジャーナルとして発刊されたJournal of Management Scientific Reportsである。

 

経営学も比較的歴史の浅い学問分野というよりは、研究者の層も厚くなり、経営理論などの成熟度も高まってきた。成熟度が高まった学問分野に必須の義務は、単に新しい理論や仮説を作り続けることだけではなく、これまで蓄積された理論や仮説を再検討しつづけ、洗練し、修正していく地道な作業である。このような活動があって初めて経営学が安心して実務家に使ってもらえる公共財となるのである。これは、役割分担を進めていくべきということでもある。新規性が高く革新的な理論や仮説を発表するジャーナルがある一方で、既存の理論や仮説の追試を通じて改善、修正していくジャーナルもあるという具合で、異なる役割を担うジャーナルや研究活動が力を合わせて学問分野全体を持続的に発展させていくということである。経営学コミュニティーの自浄作用によって、正しい方向に研究活動の動向が向かうことが求められるし、そのように向かおうとする機運が高まっているのである。

文献

Aguinis, H., Cascio, W. F., & Ramani, R. S. (2017). Science’s reproducibility and replicability crisis: International business is not immune. Journal of International Business Studies, 48, 653-663.

 

「系統樹思考」とは何か

この世の森羅万象をいかに体系化し、理解するかは人類共通の課題といってよいだろう。私たちが、多様なものを整理し、知識として体系づけようするのは自然な行動である。これに関して、三中(2006)は、生物学における進化思考をより一般化し発展させた「系統樹思考」を紹介する。三中によると、「系統樹思考」とは、対象物をデータ源としてその背後にある過去の事象(分岐順序や祖先状態)に関する推論を行う思考である。わかりやすくいえば、時空的に変化し続ける対象物を理解するための「タテ思考」である。ここでいう「系統樹」とは、さまざまなもの(生物・無生物)を系譜に沿って体系的に理解するための手段であり、系統樹思考は、そのような体系的理解をしようとする思考態度だといえる。つまり、系統樹思考とは対象物の間の系譜関係に基づく体系化を行おうとする思考で、もともとは、生物学の世界において多様な生物がどのように進化し現在に至っているのかを考える生物系統学から派生している。

 

系統樹思考は現代生物学がもたらしたものではあるが、これは私たちの文化、思想、社会にまで射程を広げつつある「思考法の変革」でもあると三中はいう。なぜならば、自然界のみならず日常生活の中でさえ、私たちの目の前にはさまざまな出来事や物事が現れては消えていくが、そのような「もの」や「こと」はてんでばらばらに生じてくるのではなく、なにか相互に由来関係があるのではないかと問いかけるべきだからである。由来関係が見つかり、系統樹が書けたのであれば、現在私たちが見ているものの背後には過去からの系譜の流れがあることがわかり、その流れにそってさまざまな特徴の変化のありさまをたどることができるのである。

 

そもそも私たちは雑多な物をそのまま呑み込んで理解できない。よって、多様性を体系化する方法の1つである系統樹思考が役に立つのである。例えば、生物と無生物に関係なく、自然物と人造物のいかんを問わず、時間の経過とともに、過去から伝わってきた「もの」のかたちを変え、その中身を変更し、そして来たるべき将来に「もの」が残っていくのが世の常である。私たちが気づかないまま、身の回りには実に多くの(広い意味での)「進化」が作用し続けている。よって、生物であろうと非生物であろうと、系統樹という表現手段によって、祖先から子孫への由来の関係を図示することができる。つまり、生物だけにかぎらず、もっと広い意味での「進化」を見る視点が、系統樹思考なのである。

 

三中によれば、生物学では、それぞれの対象がたどってきた系譜を、系統樹という図像により表現し、その図形言語をコミュニケーションの手段として、対象に関するさまざまな議論を交わし、仮説や理論をテストしたり鍛え上げたりしてきた。しかし、系統樹に基づく系統樹思考は、生物進化を描くツールとしてだけでなく、もっと広い自然科学と人文・社会科学を含む分野にも、さらには私たちの日常的な生活世界やものの考え方にまで、深くその根をおろしているという。つまり「系統樹」は、もはや文系、理系を問わず、諸学問の「壁」を越えた共通言語としての地位を固めつつあると三中はいうのである。ツリーやネットワークを用いた進化学的、系統的な思考法は、対象物を選ばないという点で普遍的な性格さえ帯びているというわけである。よって、まだその言語が浸透していない分野でも、系統樹に基づく問題解決を試みてみようとする機運が高まる可能性があるということである。

 

さて、系統樹思考では、時間軸を含めた歴史的な出来事を「科学的」に理解していこうとする。系統樹が観察データを説明するとは、観察された形質状態の分布を系統樹の上での形質状態の変化(進化)の結果として説明するということである。ここで問題となるのは、科学的とは何かということである。歴史科学を射程に入れる三中は、物理や化学などの多くの自然科学のような実験や再現性が可能となることを科学の条件とはしない。現在入手可能な様々な観測データからどのように過去を復元するかを、アブダクションという論理を用いて推定するのも科学である。過ぎ去ってしまった単一の歴史的事象はもはや再現できない。そこで、データの比較に基づく歴史推定、すなわち比較法に基づくアブダクションが用いられるわけである。

 

実験や再現性を確認できない歴史的事実といった現象を科学的に理解する上では、利用可能なデータに照らし合わせて、データを最もよく説明するような仮説を選ぶという作業がメインとなると三中はいう。仮説や理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較するということである。これがアブダクションである。三中は、経験科学としての歴史、歴史は実践可能な科学であり、それを支えているのが系統樹思考だという。よって、生物学にとどまらず、言語、写本、民俗、文化、異物など、自然科学・人文科学の壁を越えた「比較法」に関する共通点を探ることにより、歴史を推定し過去を復元するという歴史科学の共通の方法論を確立することができるだろうと三中は期待している。

 

科学的なアプローチによって、データをうまく説明できるベストの系統樹を選ぶということは、あらかじめ設定した最適化基準のもとで、今あるデータに照らして、候補となる複数の系統樹の間の相対ランキングをつけ、最上位のランクの系統樹を選ぶということである。このように、ベストの系統樹を探し求めるというアブダクションの作業は、形質データから出発して目的関数の値を徐々に最適化する方向に山登りするという、網羅的探索あるいは発見的探索によって最適化問題を解くことに他ならない。そして近年では、系統樹の数学によって、系統樹を用いた方法論が一般化、抽象化されるようになっていると三中はいう。

文献

三中信宏 2006「系統樹思考の世界」(講談社現代新書)

 

朱子学・陽明学が説く儒教的な宇宙認識とは

小倉(2012)によれば、儒教の中でも朱子学は、変革と躍動と生命の思想であり、陽明学は、朱子学を継承しつつそれを批判・超克した「心の哲学」である。朱子学で最も重要な概念が「理」と「気」で、陽明学では「良知」や「万物一体の仁」に重点が移行する。ただし、小倉は、朱子学陽明学の要諦を「宇宙快楽、宇宙認識」というキーワードで理解しようとする。そもそも儒教とは、人間の、あるいは共同体の持つ道徳的なエネルギーを最高度に充溢させるときに生じる、一種異様な精神的高揚感を原点として構築された全宇宙の壮大な体系であると小倉はいうのである。君子や士大夫が天のエネルギーの活性化とシンクロできた習慣に得られる恍惚とするような宇宙的道徳性を、儒教思想家たちは、仁とか義とか、中庸とか良知など様々な概念で説明しているが、どれも道徳エネルギーの絶対的かつ動的な均衡点を指している。これが宇宙快楽であり、その基礎となるのが宇宙認識である。

 

では、儒教における宇宙認識とはどのようなものであろうか。小倉は、易の思想によって提示されているように、儒教は固定化の思想ではなく、一瞬も休みなき変化の思想であるという。社会、世界、宇宙は常に動いているが、その動きや変化には法則性がある。儒教は変化の思想であるだけではなく、もっと積極的に、その法則性を理解することで変革を実践しようとする思想だともいえる。

 

小倉はまず朱子学の宇宙認識について解説する。朱子学は人間の心の微細な動きから、宇宙の全体的な力動まですべてを説明する壮大な体系である。これを貫通するのが、理と気である。宇宙の仕組みや力動を説明するときには、理は往々にして「太極(究極的で、最も包摂的で、最も全体的で、完全に統合的な性格」として表現される。朱子学によれば、心も社会も国家も美しくなくてはならないし、本来美しいものである。朱子学でいう美とは、宇宙自然の動体的均衡の美しさで、均衡的秩序を、中庸といいう。これが美であり、この素材は「気」である。美を生きるとは、宇宙全体が躍動している秩序すなわち「理」と一体化できるよう、自分の「気」をコントロールすることである。志の力によって心が宇宙全体の動きと一体化することで動的美そのものの境地となることが、孟子のいう「不動心」である。

 

この宇宙は一瞬たりとも休みのない動的生命体である。宇宙には生命がみなぎっており、その生命の動態自体に道徳と美が宿っている。これが朱子学的世界観の基本だと小倉はいう。つまり、宇宙のすべては「気」でできている。気は世界の物質的側面であるが、理という原理的側面もある。理と気の両方があって世界が成り立つ。宇宙全体を生き生きと構成し生成しているものが気であり、別の言い方をすれば「自然」であるが、この自然には生命力という永遠不滅のエネルギーが備わっている。この根源的なエネルギーを全体として捉え、それと一体化することに邁進するのが儒教的な世界観である。

 

一方、理とは、宇宙・世界・国家・社会・家族・自己を貫通する物理的・生理的・倫理的・論理的法則だと小倉は解説する。この世のすべては素材としては気で成り立っているが、その素材の動態に自然的な秩序を与え、全体と部分に対して同時に完全な調和を与える法則が理だというのである。小倉によれば、朱子学は、絶対的な道徳性である理を信奉し、人間の善性を確信して社会を変革していくリゴリズム(厳格主義)の思想である。また、朱子学的世界観は人間中心主義だともいう。生命的なスピリチュアル・エネルギーが宿った物質である気が流行し、万物になる。その中でも人間こそ、最高のスピリチュアリティを備えて存在(霊長)だというわけである。

 

次に小倉は陽明学の宇宙認識について解説する。陽明学の核心は、心にすべてをシンクロナイズ(同期)させるエネルギーである。朱子学が均衡的動態の美にこだわるのに対し、陽明学は「ひとつになること」に徹底的にこだわる。陽明学朱子学を引き継いでいるが、朱子学が、世界を二重性の相で捉えるといったように「わけて」考える思想なのに対して、陽明学は「わけない」思想である。理と気、性と情、内と外、善と悪などを、わけない。朱子学が「根本は1つだが、結局はわかれている」と考えるのに対し、陽明学は「表面上はわかれているように見えるが、根本はひとつである」と考える。

 

小倉によれば、陽明学において、「わけない」という境地を最も直截に表しているのが「万物一体の仁」という言葉である。仁は、生き生きと、活発に、生命力あふれて、流れるように美しくはたらいていることである。すべてが共鳴し、共感し、共苦し、共振している。すべてのもの・ことの本源的な生命力は渾一的だと見るので、その本源に自我意識を合わせることができれば、万物はひとつの環流する大生命であることを体得できるというのである。

文献

小倉紀蔵 2012「入門 朱子学と陽明学」(ちくま新書)

捨てることで論文は強くなる

論文を作成する際に犯しがちな誤りは、色々な要素を盛り込むと論文のクオリティが向上するという思い込みである。この思いは、理解できなくはない。例えば、データを分析した結果、これも面白い、あれも面白い、というようにたくさんの発見が得られるかもしれない。その場合、できるだけたくさんの発見を論文に盛り込みたいと思うかもしれない。また、論文を執筆するときに非常にたくさんの文献を収集し、精読した結果、この内容も盛り込みたい、あれも盛り込みたい、と思うかもしれない。つまり、研究を行う過程で獲得した文献の知識や様々な発見を、余すことなく1つの論文に凝縮することが、論文のクオリティを高めると思ってしまうのである。確かに、近年のトップジャーナル掲載論文を見れば、複数の調査を行っているものや、分量の多い論文も見られるのは事実である。

 

しかし、論文で磨くべき強みというのは、シンプルかつ骨太でインパクトのあるストーリーなりメッセージであるべきなのである。いろんな要素を論文に盛り込んでしまうと、論文のクオリティが上がらないばかりか、むしろ下がってしまう。まず、論文全体が長くなる。長くなりつつも、規定のページ数に収めようとするので、大事なポイントも端折ってしまい、舌足らずになる。そして、本来強みであるべき骨太の発見やストーリーが、雑多な他の記述で濁ってしまい、論文の焦点がぼやけてしまう。つまり、論文のクオリティを高めようとしてやっていることが、往々にして論文の強みを目立たなくするノイズあるいは贅肉を増やしてしまうことになっているのである。いくら美しく見事な骨格を有していても、贅肉だらけな身体からは美しさは伝わってこない。よって、やるべきことは、贅肉をそぎ落として、骨格をさらに骨太になるように鍛える、ということだ。

 

例えば、コピーライターの仕事を想像するとよいだろう。コピーライターは、短く、インパクトのある言葉を選ぶことで最も人を動かすことができることを知っている。どんな商品やサービスも、良い面、売りとなる面は多数あり、それらをすべて訴求したい気持ちは十分わかる。けれども、コピーライターは、もっともインパクトのある言葉を生成して選択し、残りは捨てるというメリハリによって、優れたキャッチコピーを生み出すわけである。論文執筆も似た面がある。強みを隠してしまう邪魔な要素を思い切って捨ててしまい、最も強いところだけを残すことで、それをさらに深め、強化するスペースも生み出される。それを強化することで、深みを増した優れた論文が出来上がると考えられるのである。

 

これを実践するには、サンクコストの罠にはまらないようにすることが重要である。研究というのは非常に時間がかかることである。時には試行錯誤も伴うし、データ収集や分析にとても苦労するかもしれない。であるから研究の過程でこれだけ時間と手間をかけたのだから、それは論文に盛り込みたい、もったいないから捨てたくない、という気持ちが出てくるのは当然である。しかし、そういった気持ちをぐっと抑え、論文の強みを打ち消すノイズになりかねないコンテンツはさっぱりと捨ててしまおう。それらは捨て石かもしれないが、捨て石があってもそ、本来必要な石が活きると考えよう。査読者はフレンドリーレビュアーなどの外部からの声に素直に耳を傾けることも必要だ。いろんなものを盛り込みすぎた論文は、正直わかりにくいとストレートなフィードバックがあるはずである。そういった辛口コメントを真摯に受け止め、分かりやすくインパクトのある論文執筆を進めよう。