「人間万事塞翁が馬」に学ぶ中国思想

中国のことわざに「人間(じんかん)万事塞翁が馬」というものがある。金谷(1993)によれば、これは『淮南子』に出てくる「塞翁が馬」から来ている。国境の砦のほとりにひとりの老人がおり、ある時飼っていた馬が逃げてしまった。人々がおくやみをいうと、「いや、これは幸いのもとになるだろう」と答える。すると、その言葉通り逃げた馬がたくさんの野生の馬をつれて戻ってきた。人々が「おめでとう」というと、「いやいや、これがかえって災いのもとになるかもしれん」と老人は返した。そのとおり、息子が馬を乗り回しているうちに落馬し骨折してしまう。「お気の毒なことで」と人々がいうと、「いや、これがまた幸いのもとになるかもしれない」と老人がいい、実際、戦争になって多くの若者が戦死したのに、息子は怪我のせいで戦争に行けず、命拾いをしたという話である。


日本でもよく知られたことわざであるわけだが、金谷は、この「塞翁が馬」のとらえ方が日本人と中国人とでは違うという。中国人の考え方のほうが中国思想を反映していることを含んだコメントである。ではどう違うのか。まず、日本では、広辞苑に、塞翁が馬を「人生の吉凶・禍福は予測できぬことのたとえ」とあり、角川の漢字中辞典では「人生の幸・不幸が変わりやすいことのたとえ」とあるように、「人間の努力は報われるか報われないか、禍福はままならない」と日本人は理解しているのだと金谷は指摘する。人生はサイコロを投げるようなもので、何が起こるかわからない(思いがけない幸運に恵まれることもある)という理解の仕方であるといえる。


しかし、中国の辞書では「しばらく損害を受けても、またそれで良いことが得られることのたとえ」となっていると金谷は指摘する。つまり、塞翁が馬の意味は「失敗してもまた回復して良いことが得られるというたとえ」だというのである。日本では、世の中のことは当てにならないもので、個人の努力には限りがあるといった方向になっていくのだが、中国では、失敗したってくじけるなということになる。禍を受けてもそれで失望してはいけない、むしろ次の幸福への転換を期待して頑張れということである。日本では「禍が来たり福が来たりと世の中は当てにならない」となるのだが、中国では「禍の中に福の兆しがあり、福の影に禍が隠れている」となり、易の思想の「もの極まれば変ず」と深く関連した解釈になっていることがわかる。


さらに言えば、「塞翁が馬」には、本質的にたいへん楽天的な中国人の考え方が表現されていると金谷はいう。どんなに激しい嵐でもいつまでも続くものではない。辛抱していればいつかはおさまるというように、苦難にもへこたれない知恵を教えており、同時に、良いことが起こったときに有頂天になることを警戒する教訓にもなっている。つまり、「人勧万事塞翁が馬」のことわざは、日本人が考えるように、「将来何が起こるかわからない。良いことも悪いことも起こる」ということを示唆するものではなく、陰陽の易思想も反映しながら、物事が悪くなってもへこたれず楽観的に構え、物事が良い方に向かったときには油断したり有頂天になることを戒める、中国流の処世術を表したものだともいえるのである。