因果複雑性の経営学(1):従来の経営理論が有する欠陥

経営学が対象とする経営現象は、複雑である。例えば、企業業績は、様々な要素の組み合わせによって生じるもので、業績に影響を与える1つの決定的な要素があるわけではない。しかし、従来の経営学は、このような複雑性を考慮した理論を構築することができなかった。それはなぜかというと、従来の経営学は、理論構築のプロセスにおいて、特定の思考法にとらわれてきたからである。その思考法は、一言でいうと、方程式的な思考法で、もう少し丁寧にいうならば、数学でいうところの線形代数的な思考法である。これは、Xという独立変数を変化させると、Yという従属変数が変化するという関係性を基本とするもので、より複雑な経営学理論やそこから得られる仮説もこの思考法に依拠している。

 

方程式的な思考法は、還元主義でもある。もっとも単純な関係は、2変数の相関関係であり、これがより複雑な方程式に派生していく。この相関関係は線形性と対称性を有しており、Xが増加するとYも増加する、Xが減少するとYも減少するという単純な関係である。独立変数がたくさんあるような重回帰分析であっても、変数ごとに分解すれば線形性と対称性は維持される。それがゆえに、線形代数が基本となるわけで、従属変数や独立変数が複数になると、多変量解析という手法に発展するが、一見高度で複雑なモデルであっても、2変数の相関関係が基本となることは変わりがない。であるから、企業業績を例にひけば、業績の決定要因としての個々の独立変数Xが企業業績Yに与える影響というのが特定され、それがすべて合わさった、すなわち加法された結果が企業業績になるという考え方である。これを、ネットエフェクト(純効果)主義という。

 

つまり、従来の経営学だと、例えば企業業績の決定についての理論としては一見非常に複雑な理論やモデルを想定したとしても、その理論やモデルは、個々の要素が企業業績に与えるプラスやマイナスの影響の総和だと考えられてきたのである。これは、「全体は部分の総和ではない」という思想に反している。本当に複雑な現象というのは、全体を部分の総和で考えるだけではいけないのである。従来の経営学は、関心のある現象の決定要因を独立変数というかたちに還元する「還元主義」、還元されたXとYの関係の理解を線形代数に依拠する「線形性」、XとYの関係が上方向にも下方向にも対称であると想定する「対称性」、複数のXの効果の総和でYが決まるという「純効果主義」に支配されてきたので、これを前提とした経営理論や経営学モデル以上のものが作れなかったのである。これからの経営学は、「還元主義」「線形性」「対称性」「純効果主義」の呪縛から解放され、複雑な経営現象をもっと効果的な形で記述し、理解し、説明し、予測できるようにならなければ真に役に立つ経営理論にはならないだろう。

 

上記で議論した内容は、ほぼ因果関係の話である。企業業績を例にひけば、企業業績に影響を与える還元された諸要因Xが、企業業績Yが生じる原因となるという因果関係を理論化するわけである。別の言い方をすれば、経営学理論は、経営現象に関する因果関係に関する理論である。後のパートで説明するが、複雑な経営現象は、因果関係も複雑なはずなのに、従来の経営学は、先にあげた方程式的な思考法に支配されてきたがゆえに、因果関係性を理論化することに失敗し、単純な因果関係の積み重ねとしてでしか理論化できなかったのである。これも後のパートで説明するが、経営学に限らず、どのような学問分野も、理論や命題、仮説といった抽象的な思考というのは、それと現実とを結びつける実証的な方法論、具体的にいえば、数量化や統計学的な技術とりわけ数学と不可分である。経営学の実証方法の大部分が、方程式や線形代数に依拠するものであったがゆえに、理論そのものが方程式や線形代数的な発想を乗り越えることができなかったのである。

 

今回の締めくくりとして、経営学の具体的な理論を例示して上記の記述をおさらいしよう。例に挙げるのは、いまや経営学の化石となってしまい、経営学の博物館的な役割を担っている伝統的な教科書にしか登場しない「組織のコンティンジェンシー理論」である。コンティンジェンシー理論そのものは良く知られているのでここでは説明しない。バーンズ=ストーカーによる「機械的組織 vs 有機的組織」の理論を用いて説明しよう。この理論は、あたかも昔の天文学者が天体の運動を研究するかのような思考に基づいている。昔の天文学者の発想は、天体を、1つの点にまで還元してしまって、点の軌道を理論化したことである。これが大成功で科学の発展に大きく寄与したことは事実である。コンティンジェンシー理論も、組織の性質を機械的組織と有機的組織という2の変数に還元してしまい、その変数と企業業績の関係に還元してしまった。そして、これらの変数の相関関係を環境という第三の変数が調整する(関係性を強めたり弱めたりする)という発想である。これは方程式的にいうと、変数間の交互作用という形で表現できるが、それほど難しいものではない。

 

組織のコンティンジェンシー理論は扱われている変数の数が少なく、かつそれらの関係も分かりやすいが、単純すぎて現実の経営現象の因果関係の複雑性を捉えられない。つまり、経営の実践家が次々と新しいことを学べるような形で理論が進化、発展しないのである。天体運動のような現象であれば、天体を点にまで還元してしまっても、そこで得られた知見を他の物理現象一般に適用可能であったが、経営学ではそうはいかない。物理現象と社会現象は本質的には異なると考えた方が良い。よって、単純すぎる経営理論はそこで進化が止まってしまって化石のようになり、博物館的なテキストで鑑賞されるだけという運命を辿ることになったのである。次回以降において、これからの経営学に求められる「構成論アプローチ」と、それを支える「因果複雑性」とは何かについて、Fiss (2007), Furunari, Crilly, Misangyi, et al (2021), Misangyi, Greckhamer, Furnari, et al. (2017)あたりを参照しながら解説していく。

文献

Fiss, P. C. (2007). A set-theoretic approach to organizational configurations. Academy of Management Review, 32(4), 1180-1198.

Furnari, S., Crilly, D., Misangyi, V. F., Greckhamer, T., Fiss, P. C., & Aguilera, R. V. (2021). Capturing causal complexity: Heuristics for configurational theorizing. Academy of Management Review, 46(4), 778-799.

Misangyi, V. F., Greckhamer, T., Furnari, S., Fiss, P. C., Crilly, D., & Aguilera, R. (2017). Embracing causal complexity: The emergence of a neo-configurational perspective. Journal of Management, 43(1), 255-282.

 

3Eフレームワークで理論の完成度を採点する

経営学では、次々と新しい理論が登場する。ただ、重要なのは、それらの新しい理論が本当に優れているかどうかを瞬時に判断するのは難しいということである。とりわけ、多くの理論が、Academy of Management Reviewなどのトップジャーナルから生まれているため、ジャーナルの権威の影響を受け、盲目的に優れた理論だと思い込んでしまうかもしれない。これに対し、Arend, Sarooghi, & Burkemper (2015)は、公平で、客観的で、あらゆる経営学理論に適用可能な評価の枠組みを、3Eフレームワークという形で集約した。3Eフレームワークを用いれば、それぞれの項目ごとに理論の良し悪しを採点することが可能であり、その結果に基づき、どうすればその理論の完成度を高めることができるかについての指針を得ることができるのだ。

 

3Eフレームワークは、3つのE (Experience: 経験、Explanation: 説明、Establish: 確立)の要素で成り立っており、それぞれのEが複数の評価要素から成り立っている。これは、研究者によってどのように理論が構築され、確立されていくかというプロセスも反映している。まず「Experience(経験)」については、研究者がどのような経験を得て理論構築を行ったかの適切性を判断するもので、「既存の文献を参照し、それらに基づいて構築されているか」と「理論の対象に対する妥当な観察に基づいて構築されているか」という2 つの評価基準がある。理論は、何らかの現象を説明するために構築されるものであるから、その現象についての既存の知識や注意深い観察という研究者の「Experience(経験)」は、良い理論の構築には欠かせない要素である。

 

もし、特定の理論が対象とする現象について十分な先行文献の理解ができていなければ、その理論が先行研究から生まれた理論と比べてどこが新しいのか、そもそも新規性があるのかさえ分からない。理論が優れているか有用かどうかというのも、その比較となる別の理論との比較がないと判断できない。以前の理論や対立する理論との共通点、類似点、相違点を明らかにすることで初めてその理論の新規性や有用性が判断できる。よって、十分な先行文献に基づかないで構築された理論は、優れた理論の基準を満たしていない。また、対象の注意深い観察から構築された理論であるならば、その観察の信頼性が問題となる。偏った観察や非常に狭い場面の観察から構築された理論が偏っていたり応用範囲がほとんどないことは明らかである。

 

次に、「Explanation: 説明」は、理論の核心部分であって、例えば、現象を記述したり抽象化、モデル化するだけでなぜそうなるのかを説明できないものは理論とは言えない。まず、理論を構成するユニット(単位)が十分に幅広いものかどうかを判断する必要がある。とても幅の狭い範囲しかカバーしない理論は、実践への応用が不可能である。なぜならば、現実の実践はその理論でカバーしない多くの別の要素も含んだ全体のプロセスなしには成り立たないからである。実践の全体プロセスのごく一部だけを扱った理論だと役に立たないということである。実践でも適用可能な広さを持ったユニットで構成された理論が望ましい。また、ユニット間の関係が因果関係などで説明できないものは理論とは言えない。例えば、ただXが強まるとYも強まると記述することは、なぜそうなるのかの説明が欠けているため、Xが強まるとYは弱まるのではないかという疑問が湧いても、それへの論理的な反論ができない。よってそれは理論とは言えない。

 

さらに、その理論の境界が明らかになっていることが必要である。例えば、XというユニットがYというユニットに影響を与えることを示すモデルならば、Xはどこからどこまでの範囲で動くのか、Yもどこからどこまでの範囲で動くのかが分からないといけない。それが分からないということは、Xを操作することでYが非現実的なレベルまで増大する事も想定される。非現実的な予測がなされる理論は現実に適応できない。また、ユニットの集合体として表現される理論そのものに、どのような状態があるのかも明らかでないといけない。言い換えるならば、その理論が想定するパターンというのはどんなものがどれくらいあるのかということである。特定の状態やパターンが定まっていない、どんなパターンもありうるということは、その理論を使うとどんな状況も考えられるということなので非現実的である。

 

さらに、理論から導き出される命題の適切性を判断する必要がある。命題には3つの種類がある。1つ目は、特定のユニットの値の範囲とそれに伴う別のユニットの状態に関する命題で、平たく言えば、XとYがどう関係しているかを述べるものである。2つ目は、特定のパターンが持続するための複数のユニットの条件に関する命題で、ある特定の状態(パターン)が成り立つ条件を述べるものである。3つ目は、ある特定の状態から、別の状態に移行するための条件を述べるものである。また、理論に背後にあるいくつかの前提が適切かどうかの判断も重要である。理論の背後にある前提が正しければ、理論が説明する内容も正しいわけだから、理論の背後にある前提が間違っていれば、その理論の内容も間違っていることになり、実践に使うことができない。理論を構成する論理も注意深く吟味しないといけない。例えば、その論理は、因果関係の論理なのか、トートロジーに陥った論理になっていないか、論理全体のストーリーに一貫性があるか、といった評価である。

 

理論を評価する最後のEである「Establish: 確立」では、そもそもその理論は実証できるのかという点を評価しなければならない。あるいは反証可能性があるかという点が大切である。例えば、理論を構成するユニットが測定不可能だったりして検証も反証もできなければ、その理論と私たちが経験する現実との関係を調べることができないわけだから、理論そのものの妥当性が成り立たないので、理論を確立することが不可能である。また、その理論は、実務家にもわかりやすく、実務家から価値のあるものとして認められているかという点が重要である。実務家に認められない理論というのは、実践に使えない理論ということであるので、経営学の理論としては失格である。

 

Arendらは、この3Eフレームワークを用いて、アントレプレナーシップ分野で注目されている「エフェクチュエーション理論」を採点し、ポテンシャルはあるがまだまだ未熟な理論だという厳しい評価と将来研究への注文を下している。

文献

Arend, R. J., Sarooghi, H., & Burkemper, A. (2015). Effectuation as ineffectual? Applying the 3E theory-assessment framework to a proposed new theory of entrepreneurship. Academy of Management Review, 40(4), 630-651.

人類社会に強いインパクトをもたらす経営学研究とは

経営学は応用学問であるため、経営学研究が社会に対して強いインパクトをもたらすことも期待されている。経営学だから企業経営の特定の分野・機能や企業業績の向上に役立てばよいというわけではなく、研究成果が幅広く人類社会の発展に貢献できるのであれば理想的である。むしろ、営利組織ではなく教育機関としての大学で行う研究であるならなおさら、企業経営の枠を超えたより良き社会の実現に貢献するべきであろう。では、そのような強いインパクトをもたらす研究をどのように実践すればよいのだろうか。Wickert, Post, Doh, Prescott, & Prencipe (2021)の論考を参考に考えてみよう。

 

まず、Wickertらが考える経営学もしくは「マネジメント」は、企業経営という狭い範囲にとどまらないものであることが重要である。行政や公共機関も、国家や社会の問題を解決するための「マネジメント」を行うし、NGONPOなどの組織もそうである。よって、実践に大きなインパクトを与える経営学研究とは、社会全般のさまざまな場面で活動する「マネージャー」の実践における物の見方考え方にインパクトを与える、すなわち、これまで以上に優れたマネジメントを実践するために、これまでの考え方の再考を迫るもの、新たな視点を提供するもの、マネジメントに関する既存の理論やモデルを修正したりするものであるということである。

 

上記のような視点からの強いインパクトをもたらす経営学研究を行ううえで、Wickertらは、「深く理解したい大きな問題、解決したい重要な問題を起点として研究を始めよ」「注目すべき重要な現象を見つけ出し、その現象理解を目的とした研究を推進せよ」という2点を強調する。つまり、理論から始めて、理論の欠陥や拡張を目指すというようなアプローチではなく、重要かつ大きな問題に駆動される研究、それを示す重要な現象に着目する研究が大切だというのである。深く理解したい大きな問題とは、例えば、社会の不平等はなぜ生じているのか、どうすれば解決することができるのだろうかといった、人類にとっても重要な問題である。注目すべき重要な現象とは、例えば、前者の理解したい重要な問題(社会の不平等)を具体的に表している特定の現象(組織内の男女差別など)のことである。

 

Wickertらは、経営学における理論の構築や理論の改善は、それ自体が「目的」なのではなく、社会における問題や現象をよりよく理解するための「手段」であると主張する。よって、重要かつ大きな社会問題(例、サステナビリティ、環境問題、平等、ダイバーシティ)やそれに付随する特定の現象の深い理解や問題解決に向けた意思決定やアクションにとって、既存の理論が適切なのか、欠陥や不備はないか、別の理論が当てはまるのではないか、あるいはまったく新しい理論や視点が必要なのではないかといった問いを持ち、それらに駆動された研究が、強いインパクトをもつ研究成果につながるのだと考えられるわけである。

 

研究を通して社会課題の解決などに向けた実践にインパクトを与えるためには、研究の内容が実践家に行動を促すような要素を含んでいる必要があるとWickertらは指摘する。例えば、実践家が、論文で扱われているテーマや課題について提示された理論やモデルを実践で試してみようと思わせるようなもの、つまり、実践家が研究や論文から何を、どのようにすれば良いのかの示唆を得て、それを実際に使ってみようとさせるものが望ましい。学術論文においてそのような要素を含んでいるものも良いし、さらに、実践しやすくするように、学術論文の内容を実務家向けの雑誌や学術論文とは異なるフォーマットによる著作として翻訳することによって実践をさらに促進していくことも有用だという。

 

またWickertらは、実践家とのコミュニケーションを通して社会に対して強いインパクトをもたらす論文を執筆する際には、学術論文同士の引用で閉じてしまうのではなく、実務雑誌からの引用をしたり、実務雑誌やテキストに引用されることを意識することを勧める。また、研究を進めるさいには、実践家とよく対話をし、実践家の話をよく聞くことも大切だという。学術成果がよくまとまったレビュー論文も、実務雑誌やテキストによく引用されるという。レビュー論文を執筆することは、それ自体が学術的に貢献すると同時に、実践家にも示唆を与えるものとなるわけである。学術として社会に対してインパクトを与えるためには、学術と実践とのギャップを埋めていくことが大切なのである。

 

経営学研究が、さまざまな社会課題を解決し、良い社会を実現させていくための公共政策などに対してインパクトを与えていくことも期待される。そのためには、経営学の研究が、政策立案における意思決定の役に立つようなエビデンスを提供することが有効である。サステナビリティ、環境問題、平等、ダイバーシティなど、経営学でも扱われる社会課題は、それ自体が公共政策の対象でもある。国家や政府が、最も適切な政策を立案し、実行できるような理論やエビデンス経営学から多く生まれ、提供されていくことも、社会に対して強いインパクトを与えることにつながるのである。

文献

Wickert, C., Post, C., Doh, J. P., Prescott, J. E., & Prencipe, A. (2021). Management research that makes a difference: Broadening the meaning of impact. Journal of Management Studies, 58(2), 297-320.

 

女性リーダーが直面する数多くの困難や障害をどう取り除くか

組織において、女性のリーダーは、男性のリーダーが経験しないような数多くの困難や障害に直面する。これが、企業における女性役員の割合、女性管理職の割合の少なさに大きく影響している。日本では特にこの傾向は顕著だと言えよう。このような女性リーダーに特有の困難・障害のほとんどは、企業社会、もしくは社会一般における女性に対する偏見やステレオタイプに起因するものである。女性に対する偏見やステレオタイプは、意識的に行われるものもあるが、無意識的に生じるものもある。無意識的に生じるものは、偏見やステレオタイプを用いて女性を見る人々が無自覚であるがゆえに克服するのがより困難であるとも言える。偏見やステレオタイプに基づく女性リーダーに対する障害は、リーダーとしてのポテンシャルを持った女性や既にリーダーとなった女性の内面にも影響を与え、それがリーダーとなることを志望する女性の数を減らしているという悪循環に陥っている。

 

では、女性リーダーの育成を活発化し、女性リーダーの割合を増やしたい組織、そして女性リーダー自身は、上記に挙げたような困難・障害をいかにして乗り越え、悪循環を断ち切り、逆に、困難や障害を排除してサポートを増やすことでリーダーを志望する女性を増やすといったような好循環を生み出すには具体的にどうすれば良いのだろうか。以下において、Galsanjigmed & Sekiguchi (2023)のレビューに沿って説明を試みる。本題に答える前に、まず、女性リーダーが直面する困難や障害にはどのようなものがあるのかを整理しておこう。女性リーダーが直面する困難や障害には、女性リーダーを取り巻く環境に起因する外的要因と、女性本人の意識に起因する内的要因がある。どちらも、社会における女性に関する偏見やステレオタイプ(例、女性は家庭を守る存在である、女性はリーダーには向いていない)に基づくものが大半である。Galsanjigmed & Sekiguchi (2023)は、以下のように整理している(詳細はオープンアクセスである当該論文を参照のこと)。

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外的要因

  • ガラスの天井(glass ceiling)
  • 粘着フロア(sticky floor)
  • リーダーシップの迷宮(leadership labyrinth)
  • 女性リーダーシップ・プロトタイプ(female leadership prototypes)
  • 管理職といえば男性という連想(think manager-think male)
  • 危機といえば女性という連想(think crisis-think female)
  • ダブルバインド(bouble bind)
  • 反発(backlash)
  • リーダーシップ開発機会の欠如(the lack of leadership development)
  • ガラスの崖(glass cliff)
  • 女王蜂シンドローム(queen bee syndrome)

内的要因

女性は、企業などの組織に入社し、キャリアを始める瞬間から既に偏見やステレオタイプに起因する困難や障害にさらされている。「ガラスの天井」は、女性が管理職などに昇進するのを妨げ、「粘着フロア」は、女性を組織の底辺に粘着テープのように吸い付けて彼女たちがキャリアの階段を上昇していくことを妨げる。女性が努力や能力によってガラスの天井を突き破ってリーダーとなっても、リーダーの階段を登りより高いレベルのリーダーに昇進しようとすればするほど、彼女への風当たりは強くなる。つまり、さらに強い困難や障害が降りかかってくる。1つ乗り越えても次々とまたやってくる障害。その度に右往左往し、行き止まりとなれば戻って別の道を探さねばならないなど、まさに「リーダーシップの迷宮」を彷徨うことになる。挙句の果てには、晴れてトップマネジメントに近づいても、組織内で「危機といえば女性という連想」という思考が作動し、組織が危機に陥った時に女性がリーダーとして任命されやすくなるため、組織の失敗と共に自分自身もキャリアの階段を転げ落ちてしまうという「ガラスの壁」の餌食となりやすい。

 

このように、女性リーダーを取り巻く環境からくる強い風当たりは、女性リーダーもしくはリーダーになる前の女性のメンタリティやマインドセットに大きな影響を与える。そもそも、男性だったら経験することがないようなそんな困難や苦労を自ら買ってでもリーダーになりたいか?そんな困難を経験しながらリーダーになるなんて、それに伴って諦めなければならない多くの代償を考えると割に合わないではないか。そんな無理をするくらいならば、リーダーにならずに仕事とは別の場所で有意義な人生を楽しみたい。このように、外的要因による困難や障害が、女性自身が自信をなくし、自分の実力を過小評価し(インポスター症候群)、リーダーとしてのキャリアに消極的となったり諦めの境地となり、結局リーダーを目指さなくなってしまうという内的要因を助長させる。そして、そういった女性の消極性が、組織から見てリーダー候補として女性を選ぶ機会を減らし、女性に対してリーダーシップ教育を施すという機会をも奪ってしまう。これがますます、女性はリーダーに向かない、リーダーを指向しないといったような偏見やステレオタイプを強化してしまうという悪循環を形成している。この悪循環が継続するため、実社会において、女性取締役や女性管理職が増えていかないという現実につながっている。この悪循環を断ち切り、好循環を生み出すことが必要である。

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では、女性リーダーを取り巻く悪循環を断ち切り、好循環を生み出すにはどうすればよいのだろうか。まず、組織がやらなければならないのは、意識的もしくは無自覚的に発動している女性への偏見やステレオタイプを明るみにし、それを1つ1つ丁寧に取り除いていくことである。とりわけ無自覚的に組織のカルチャーや規則、働き方にそれらが染み付いている場合には、少なくとも組織の構成メンバーに「気づき」を与えることが重要である。社会一般や組織内に蔓延している偏見やステレオタイプに気づくことが、それを除去していくための最初のステップである。無自覚的に組織のカルチャー、規則、働き方などに影響を与えている偏見やステレオタイプに気づいたならば、それに起因して男女不公平・不平等を生み出していると思われる具体的なルールや施策を特定し、その改善を図るべきである。それは、採用から始まり、配属、勤務体系、勤務体系、業務遂行スタイル、昇進・昇格ルール、教育研修の対象や内容などのマネジメント施策や働き方から、オフィスのレイアウトや施設の詳細など、多岐にわたることであろう。しかし、1つ1つ確実に改善していくことが大切である。

 

次に、組織は、経営上位層、すなわち取締役レベル、トップマネジメントレベルの女性の数を増やしていくべきである。経営上位層の女性を増やすことで、その下位層の女性の数が増えるようなドライブをかけるのである。もちろん、これは卵が先か、ニワトリが先かの議論になりかねない。すなわち、組織の改革が進み、下位層の女性リーダーが育ち、数が増えていかなければ、経営上位層の女性の数など増やせないといった反論である。もちろんその理屈は一理あるが、上位からのトップダウンとして女性リーダーの数を増やしていくことの経営に対する効果も多く考えられるので、ボトムアップトップダウンの挟み撃ちで推進していくべきである。トップダウンだけでも、ボトムアップだけでも改革の勢いはつかず、失速してしまうからである。トップマネジメントが変わるということは、企業や組織全体が大きく変わろうとしているというシグナルにもなるのである。そのシグナルが、ボトムアップによる組織の改革を加速することにつながる。

 

組織内の環境要因のみならず、女性自身の内面に起因する障害を取り除くためのサポートも必要である。まず、女性がリーダーシップ教育を受けたりリーダーになるための経験をする機会が男性と比べて少ないという傾向を是正し、女性に対して積極的にリーダー教育を行うことが望ましい。女性に対するリーダー教育、リーダーに必要な経験、リーダーとしてのマインドセットを醸成し、女性自身がリーダーになるためのスキルと自信を高め、リーダーとしてのキャリアを指向するようにサポートすることが重要である。リーダーとしてのキャリアを志向する女性の数が増えることで、リーダー教育を受ける女性の数も増え、それに応じて組織内における女性リーダーに対する風当たりも弱くなるといったように、外部要因も改善され、外部要因の改善がさらにリーダー候補となりうる女性の自信や積極性を高めるという好循環が生まれることが望ましい。

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上記にも関連するが、女性が、自らの強みや特徴を如何なく発揮することができるようなリーダーシップスタイルを考慮し、提案していくことも望ましい。一般的に、リーダーのイメージが男性的である、あるいは、男性的なリーダーシップスタイルが最も効果的にチームや組織を引っ張ることができるという偏見やステレオタイプが社会や組織にあるために、女性が、自分自身の性格とはそぐわない男性的なリーダー行動を取ろうと無理をしてしまって燃え尽きてしまったり、その不自然さに異性や同性からの反発を受けることも考えられるからである。もちろん、男性的なリーダーシップスタイルや、女性的なリーダーシップスタイルも存在するであろうが、そのようなステレオタイプに縛られることなく、男女問わず自分自身の強みや特徴に最も適したリーダーシップスタイルを取ることが大事なのである。それを阻むような組織カルチャーや偏見、ステレオタイプを除去することも重要なのである。

文献

Galsanjigmed, E., & Sekiguchi, T. (2023). Challenges Women Experience in Leadership Careers: An Integrative Review. Merits, 3(2), 366-389.

https://doi.org/10.3390/merits3020021

 

 

 

探索的因子分析の直感的理解

因子分析はいわば心理統計のハイライトであり、経営学においても、心理的アプローチをとる場合、非常に重要な分析である。しかし、とりわけ探索的な因子分析を理解するためには線形代数の知識が必須であるため、文科系の人々の多くは理解の途中で挫折してしまうことが多いようである。そこで今回は、数学的な説明は分かりやすい説明がなされている小杉(2022)を参照してもらうこととし、数学的な説明を大胆に捨象して直感的に探索的因子分析を理解することを試みる。

 

そもそも因子分析とは何か。これは小杉によれば「心の理論」とさえも考えることができるほど重要な分析である。例えば、採用試験において、志願者の性格を把握するために100問からなる性格テストに答えてもらったデータがあるとする。そのデータは、その人について100種類の性格を測定しているのではない。100個の反応の背後に、ごく少数の潜在的性格因子が隠れており、それが本当に知りたい「性格」だと考えるのである。それは、例えば外向性とか神経質とかである。この場合、人間の性格という「心の特徴」を数量的に理解しようとする方法としての分析を考えるということになる。

 

では、実際100個の質問で測定する性格テストの中に、幾つの潜在因子が隠れているのか。3つか、4つか、5つか。これに答えようとする分析が因子分析であり、とりわけ得られたデータの構造に基づいて探索的に因子を見つけようとするのが探索的因子分析である。例えば200人に100問の性格テストをして得られたデータを使ってこの探索的因子分析を行うような場合を考えよう。このような探索的因子分析を行う上で決定的に重要な数学的概念が「分散共分散行列」とそれを標準化した「相関行列」、行列の「固有値」と「固有ベクトル」、そして「固有値分解」である。これは線形代数を学ぶことでクリアになるが、以下では数学的説明を大幅にスキップしながらポイントだけ説明しよう。

 

分散共分散行列とは、縦と横が同じ(例えば質問項目。100問ならば100行×100列)正方行列で、対応する項目のペアごとの共分散を成分として、対角成分は分散である(同じ項目同士の共分散=分散だから)。相関行列は、分散共分散分析と比べると、共分散の部分がそれを標準化した相関係数に置き換わり、対角成分は1に置き換わる(同じ項目同士の相関=1だから)。これら2つは標準化するかしないかの違いなので後者の方が情報が若干減るが、本質的にはほぼ同じである。研究で用いる変数間の相関行列は、変数の平均と標準偏差と合わせて論文で表で示すのが数量的研究では慣例となっているので、それをイメージすればよい。

 

これらの「正方行列」が因子分析では決定的に重要である。その理由は、十分なサンプルを仮定した場合は、この正方行列の中に、変数間の関係に関する「全ての情報」が含まれていると考えるからである。だからそれらの行列さえあれば必要な情報は全てそこから取り出せる。もう1つの理由は、正方行列には、固有値固有ベクトルというこちらも計算上決定的に重要な数学的原理が存在するからである。これらの概念を使って因子分析で行うことは、「全ての情報が含まれている分散共分散行列(あるいは相関行列)」から、知りたい潜在因子に関する情報を数学的操作によって抽出する」ということなのである。ここが最も重要なポイントである。

 

では、どのようにして、分散共分散行列(相関行列)から、潜在因子を抽出するのか。そこで用いられるのが、これらの行列の「固有値分解」である。その前に、「固有値」と「固有ベクトル」について若干説明が必要である。この2つはセットになっていて、特定の正方行列について、それに固有のあるベクトル(数値の組み合わせ)については、正方行列を掛けると、スカラー(行列ではない量のみ)を掛けたものと同じになるという不思議な性質である。固有値は、正方行列の項目の数だけ存在し、これを全て足し合わせると、正方行列の対角要素を全て足し合わせた値と一致する。

 

上記をもっと直感的にいうと、固有値というのは、正方行列に含まれている情報を、単なる量の情報に変換するもので、固有ベクトルはその変換が行われる時の(方向性を持った)数値の組み合わせで、正方行列の中に隠れている空間情報の1つの次元を示している。N×Nの正方行列の固有値は大きな値から小さな値までN個あることが分かっているので、分散共分散行列を固有値分解するということは、分散共分散行列の情報を、重要な(大きな量の)情報から順番に、分散共分散行列に潜んでいる潜在次元の情報と共にN個抽出する作業であると言って良い。

 

固有値の値をN個全て足すと、分散共分散行列の対角要素の分散を全て足した値と等しくなることが分かっている。その値はデータセットに含まれる分散の全てであるから、固有値の中で意味のある(大きな)値のみを抽出した場合、それが、データセットの全分散のどれくらいを説明できるのかを計算できる。逆にいうと、小さな固有値は意味がないので因子としてカウントしないとすると、それは、抽出した因子で説明できていない誤差分散を意味する。相関行列を用いた固有値分解で説明すると、固有値を大きな値から並べた際に1以下になっているものは、性格テストの1つの質問項目が含んでいる情報よりも小さい(なぜならば相関行列では1つの項目の分散は1に標準化されているため)ので、あまり意味のない情報だと言える。

 

上記のように、固有値の中でとても小さな値は、情報としては取るに足らない誤差だと解釈し、十分に大きな固有値のみを、適当な基準で抽出すると、それがデータセット潜在的に含まれている知りたい因子の数ということになる。冒頭の性格検査の例では、100問のテストの中に潜在的に含まれている因子が5つだと推定されるという感じである。よって、分散共分散行列(相関行列)を固有値分解するということは、何もしなければ100次元ある行列の空間情報から、意味のあるものから順番に4次元とか5次元とかまで空間情報を取り出すという作業で、その時の各次元の軸の情報を与えるのが固有ベクトルであり、その成分を、その因子による負荷(重み)がかかっている相対的度合いという意味で「因子負荷量」とも呼ぶ。

 

しかし、線形代数の数学的特徴として、上記の固有値分解を行った時の各固有値に対応する固有ベクトルの組み合わせは無数にある。そこで、固有ベクトルを、大きさは無視して次元の方向の情報だけを持っているものとして解釈し、かつ、回転行列というものを用いて、固有ベクトルの方向を回転させるという数学的操作ができる。その際、因子間が相関しないように(直交するように)回転する方法や、因子間の相関を仮定して回転させる方法がある。いずれにせよ、回転させることで、特定の因子と特定の項目とのつながりが強い形で解釈可能な組み合わせを作ることができる。このような操作を行い、意味のある因子の数について、解釈がしやすい回転を施したところで、探索的因子分析を終了する。

 

このような探索的因子分析の直感的理解を再度まとめると、分散共分散行列あるいは相関行列の中にデータセットの全ての情報が含まれると仮定した上で、その正方行列の中から、固有値分解と因子回転によって意味のある少数の次元からなる空間情報を抽出する作業を因子分析で行なったわけである。探索的因子分析では、分散共分散行列(相関行列)の空間情報から、N個の次元からなる別の空間情報に変換するが、固有値が大きな次元はそれが強調された座標軸となり、固有値の小さな次元は、それが小さく縮小され(データを解釈するのに意味を持たない)座標軸となるので、後者は無視して、強調される複数の座標軸のみからなる空間座標に変換する。

 

探索的因子分析によってデータセット(分散共分散行列、相関行列)から抽出された空間座標の上に、ここのケースをプロットすることが可能であるが、解釈がしやすいように、この空間座標をくるくる回転させて収まりが良いものを探し当てる。そうすることで、性格テストの例で言えば、受験者一人ひとりの位置(すなわち性格特性)は、その少数次元からなる空間上にプロットできる。その空間情報上の座標で表現される一人ひとりのスコアが因子スコアで、例えば外向性が○点、誠実性が△点というように計算される。ただ、実際の研究では、例えば外向性因子の負荷が高い複数の項目の平均をとって外向性のスコアとすることが多い。

文献

小杉考司 2022「心理学データ解析応用: RとStanで学ぶフリーで楽しい心理統計の世界」

 

「データを拷問にかけ自白させる」「セレンディピティ主義」の危険性

フランシス・ベーコンが言ったとされる有名な言葉に、実験とは「自然を拷問にかけて自白させること」だというものがある。自然科学は経験データとの整合性が必須なので、特定の法則性が自然に備わっているならば、その自然が自分でそれを語らざるをえない状況を人工的に作り出す、すなわち拷問にかける手段が実験だということである。一方、「セレンディピティ」も科学でよく語られる言葉である。例えば、パスツールが偶然カビからペニシリンを発見した例のように、偶然が偉大な発見につながったという逸話とともに、偶然を味方につけることの重要性が数多く語られている。

 

一般的に、これらの2つは、科学における美談として語られることが多い。つまり、科学を実践する際に模範とすべき行動や態度を表す言葉である。しかし、現代の経営学をはじめとする社会科学などにおいては、少し様子が違うようである。むしろ、研究における問題行動を戒める言葉として扱われそうな雰囲気を醸し出している。ビッグデータ時代の到来とともに、経営学においても多様なデータが習得可能になり、それらのデータを用いた実証研究が盛んに行われている中で、冒頭の2つの言葉になぞらえた「データを拷問にかけて自白させる」「セレンディピティ主義」が、適切な研究を阻害する問題行動につながりかねないという指摘が増えているのである。

 

例えば、Aguinis, Cascio, & Ramani (2017)はこれらの行動に警鐘を鳴らしているが、彼らが指摘する現象が、"Capitalization on chance" というもので、これは「何かいろいろとやっていると偶然結果が得られる」というような現象である。研究をしていれば、冒頭にあげたセレンディピティの例のように、偶然何かが発見されるということはありうる話である。むしろ、Aguinisらが問題視するのは、"Systematic capitalization on chance" というもので、偶然何かの結果が出るような研究方法を意図的に志向するということである。セレンディピティによって結果を得ることを意図的に志向するということで、これをセレンディピティ主義と呼んでみよう。

 

先に述べたとおり、現在は、大量の変数が入ったデータセットを作りやすく、かつ、様々な視点から高度な分析が可能な統計分析ソフトウェアも発展している。よって、研究者としては、とにかく大量の変数の入ったデータセットを作り、これこそが宝が埋め込まれた原石とばかりに、ありとあらゆる分析を統計ソフトにやらせるのである。AIであれば文句を言わずひたすら分析続けることも可能だ。まさに、何か結果がでるまでデータを回しまくる。「データを拷問にかけて自白させる」というのはこういった行為のたとえである。偶然、何らかの結果がでるまで拷問のようにデータを分析しつづける。そうすると、いずれは偶然に有意な結果が出たりなんらかのモデルがデータにフィットするだろう。そうしたら、それに基づいたストーリーを構成して論文を作成するという塩梅である。

 

このようにして作成された論文は眉唾であることは明らかである。偶然起こった結果だから、それが、経営学の法則性やメカニズムを表したものである可能性はかなり小さい。だから、仮にそのような結果をもとに論文を発表しても、誰もそれを再現できないということが起こりうる。なぜならばそれは特定のデータから偶然得られた結果にすぎないのだから。しかも悪いことに、経営学などのトップジャーナルでは、とにかく新規性の高い、革新的な理論や仮説の実証研究を求めている。すでに発表された論文の追試などの論文はトップジャーナルには掲載できない。よって、いったん論文が発表されれば、ほかの研究者がその妥当性を再検討するモチベーションはあまりわかない。

 

だとすると、いくらトップジャーナルといっても、再現性のない理論や仮説のコレクションになりかねなく、トップジャーナルの学術的価値が危機に陥ってしまうのみならず、信用できない誤った情報を実践家に伝えてしまう危険性もある。もちろん、そのような傾向を助長しているのが、大学などの研究機関や学会などの研究者コミュニティーであるわけで、トップジャーナルへの論文の掲載が賞賛され多くの大学での教員採用や教授昇進の基準になっているから、研究者は、経営現象そのものへの探求よりも、自分自身の昇進や名声への探求に論文作成のモチベーションが向かってしまう。直感を裏切るような仮説やそれを支持する結果、複雑だが面白いモデルなど、それらがデータ分析によって「偶然」見つかったならば、しめたとばかりに論文を作成し投稿するという行為を助長している。

 

ジャーナルへの論文掲載も"Capitalization on chance"すなわちセレンディピティ主義で、打てば当たるとばかりに、偶然論文がアクセプトされてしまうことを願って投稿しまくる。そうなると、ジャーナルあたりの論文の投稿数が肥大するので、間違って問題を含む論文を掲載してしまう可能性も高めてしまう。つまり、いろんな要因が相互に影響を与え合って、再現不可能な論文が量産される可能性を高めてしまっているのである。このような由々しき事態への反省と対応から、近年では、再現性を検討する研究の見直しと評価が進んでおり、これらの論文を専門的に掲載しようとするジャーナルの設立も増えてきている。その1つが、経営学のトップジャーナルの一角であるJournal of Managementの姉妹ジャーナルとして発刊されたJournal of Management Scientific Reportsである。

 

経営学も比較的歴史の浅い学問分野というよりは、研究者の層も厚くなり、経営理論などの成熟度も高まってきた。成熟度が高まった学問分野に必須の義務は、単に新しい理論や仮説を作り続けることだけではなく、これまで蓄積された理論や仮説を再検討しつづけ、洗練し、修正していく地道な作業である。このような活動があって初めて経営学が安心して実務家に使ってもらえる公共財となるのである。これは、役割分担を進めていくべきということでもある。新規性が高く革新的な理論や仮説を発表するジャーナルがある一方で、既存の理論や仮説の追試を通じて改善、修正していくジャーナルもあるという具合で、異なる役割を担うジャーナルや研究活動が力を合わせて学問分野全体を持続的に発展させていくということである。経営学コミュニティーの自浄作用によって、正しい方向に研究活動の動向が向かうことが求められるし、そのように向かおうとする機運が高まっているのである。

文献

Aguinis, H., Cascio, W. F., & Ramani, R. S. (2017). Science’s reproducibility and replicability crisis: International business is not immune. Journal of International Business Studies, 48, 653-663.

 

「系統樹思考」とは何か

この世の森羅万象をいかに体系化し、理解するかは人類共通の課題といってよいだろう。私たちが、多様なものを整理し、知識として体系づけようするのは自然な行動である。これに関して、三中(2006)は、生物学における進化思考をより一般化し発展させた「系統樹思考」を紹介する。三中によると、「系統樹思考」とは、対象物をデータ源としてその背後にある過去の事象(分岐順序や祖先状態)に関する推論を行う思考である。わかりやすくいえば、時空的に変化し続ける対象物を理解するための「タテ思考」である。ここでいう「系統樹」とは、さまざまなもの(生物・無生物)を系譜に沿って体系的に理解するための手段であり、系統樹思考は、そのような体系的理解をしようとする思考態度だといえる。つまり、系統樹思考とは対象物の間の系譜関係に基づく体系化を行おうとする思考で、もともとは、生物学の世界において多様な生物がどのように進化し現在に至っているのかを考える生物系統学から派生している。

 

系統樹思考は現代生物学がもたらしたものではあるが、これは私たちの文化、思想、社会にまで射程を広げつつある「思考法の変革」でもあると三中はいう。なぜならば、自然界のみならず日常生活の中でさえ、私たちの目の前にはさまざまな出来事や物事が現れては消えていくが、そのような「もの」や「こと」はてんでばらばらに生じてくるのではなく、なにか相互に由来関係があるのではないかと問いかけるべきだからである。由来関係が見つかり、系統樹が書けたのであれば、現在私たちが見ているものの背後には過去からの系譜の流れがあることがわかり、その流れにそってさまざまな特徴の変化のありさまをたどることができるのである。

 

そもそも私たちは雑多な物をそのまま呑み込んで理解できない。よって、多様性を体系化する方法の1つである系統樹思考が役に立つのである。例えば、生物と無生物に関係なく、自然物と人造物のいかんを問わず、時間の経過とともに、過去から伝わってきた「もの」のかたちを変え、その中身を変更し、そして来たるべき将来に「もの」が残っていくのが世の常である。私たちが気づかないまま、身の回りには実に多くの(広い意味での)「進化」が作用し続けている。よって、生物であろうと非生物であろうと、系統樹という表現手段によって、祖先から子孫への由来の関係を図示することができる。つまり、生物だけにかぎらず、もっと広い意味での「進化」を見る視点が、系統樹思考なのである。

 

三中によれば、生物学では、それぞれの対象がたどってきた系譜を、系統樹という図像により表現し、その図形言語をコミュニケーションの手段として、対象に関するさまざまな議論を交わし、仮説や理論をテストしたり鍛え上げたりしてきた。しかし、系統樹に基づく系統樹思考は、生物進化を描くツールとしてだけでなく、もっと広い自然科学と人文・社会科学を含む分野にも、さらには私たちの日常的な生活世界やものの考え方にまで、深くその根をおろしているという。つまり「系統樹」は、もはや文系、理系を問わず、諸学問の「壁」を越えた共通言語としての地位を固めつつあると三中はいうのである。ツリーやネットワークを用いた進化学的、系統的な思考法は、対象物を選ばないという点で普遍的な性格さえ帯びているというわけである。よって、まだその言語が浸透していない分野でも、系統樹に基づく問題解決を試みてみようとする機運が高まる可能性があるということである。

 

さて、系統樹思考では、時間軸を含めた歴史的な出来事を「科学的」に理解していこうとする。系統樹が観察データを説明するとは、観察された形質状態の分布を系統樹の上での形質状態の変化(進化)の結果として説明するということである。ここで問題となるのは、科学的とは何かということである。歴史科学を射程に入れる三中は、物理や化学などの多くの自然科学のような実験や再現性が可能となることを科学の条件とはしない。現在入手可能な様々な観測データからどのように過去を復元するかを、アブダクションという論理を用いて推定するのも科学である。過ぎ去ってしまった単一の歴史的事象はもはや再現できない。そこで、データの比較に基づく歴史推定、すなわち比較法に基づくアブダクションが用いられるわけである。

 

実験や再現性を確認できない歴史的事実といった現象を科学的に理解する上では、利用可能なデータに照らし合わせて、データを最もよく説明するような仮説を選ぶという作業がメインとなると三中はいう。仮説や理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較するということである。これがアブダクションである。三中は、経験科学としての歴史、歴史は実践可能な科学であり、それを支えているのが系統樹思考だという。よって、生物学にとどまらず、言語、写本、民俗、文化、異物など、自然科学・人文科学の壁を越えた「比較法」に関する共通点を探ることにより、歴史を推定し過去を復元するという歴史科学の共通の方法論を確立することができるだろうと三中は期待している。

 

科学的なアプローチによって、データをうまく説明できるベストの系統樹を選ぶということは、あらかじめ設定した最適化基準のもとで、今あるデータに照らして、候補となる複数の系統樹の間の相対ランキングをつけ、最上位のランクの系統樹を選ぶということである。このように、ベストの系統樹を探し求めるというアブダクションの作業は、形質データから出発して目的関数の値を徐々に最適化する方向に山登りするという、網羅的探索あるいは発見的探索によって最適化問題を解くことに他ならない。そして近年では、系統樹の数学によって、系統樹を用いた方法論が一般化、抽象化されるようになっていると三中はいう。

文献

三中信宏 2006「系統樹思考の世界」(講談社現代新書)