経営学における「必要条件分析(necessary condition analysis)」の重要性

経営学においては、あるいは経営学のみならずさまざまな学問分野において、因果関係を論じることは理論構築の本質的作業である。しかし、気を付けなければならないのは、因果関係を論じる際に、「必要条件」と「十分条件」そして「必要十分条件」の違いを明確にし、これらを混同しないことである。今回は、この中でもこれまで十分な分析手法が開発されてこなかった「必要条件分析(necessary condition analysis: NCA)」の重要性について、Dul (2016)らの論考に準じつつ説明したい。

 

今回の対象とするのは、必要条件、もっと厳密にいえば、「必要ではあるが十分ではない」という条件(必要条件であるが十分条件ではない)である。これは、ある結果がもたらされるためには特定の要因が「必要」ではあるが、それがあるからといって必ずその結果がもたらされるわけではない(十分条件ではない)という因果関係を論じることを意味している。別の言い方をすれば、ある要因が存在しない状況では、特定の結果は生じえないという論理でもある。

 

経営学において一般的に多く用いられる因果関係が、特定の要因がある結果をもたらす(X → Y)というものであり、仮説としては、「XはYと関係している」「XはYに影響を与える」というようなものである。それを検証するのに、分散分析や重回帰分析などの線形モデルが用いられる。これは、因果関係ロジックとしては、「十分条件」を示している。XとYの完全な線形性を仮定しているならば、それは、「必要十分条件」である。それに対して、XとYが必要条件の関係になっている場合には、必ずしもXとYが線形の関係になっているわけではないので、回帰分析をやっても有意な結果が得られないかもしれない。

 

では、必要条件が実際に存在したとしても、それが伝統的な分散分析や重回帰分析で有意な結果がでないような関係、すなわちある特定の結果をうまく予測できないようなものであるならば、経営学にとって、そのような要因は取るに足らないものであり、無視してもよいといえるのだろうか。別の言い方をすれば、必要条件のロジックは経営学にとってどれだけ大事なのだろうか。これについては、必要条件は非常に重要なロジックだと言わざるをえない。なぜならば、必要条件は、ある意味「ボトルネック」の存在を示唆しているからである。

 

オペレーションズ・マネジメントなどで有名な制約理論「TOC」のコア概念でもある「制約条件」「ボトルネック」はまさに必要条件に相当する。ある結果(例えば、売り上げや利益)を生み出すために、いくら様々な別の条件がそろっていたとしても、対象となる特定の条件が満たされない場合には、それが制約となって結果が生じないのである。よって、ボトルネックを見つけ出すことが経営上、必要不可欠である。これほど重要な概念もなかなかないだろう。

 

上記のように経営学にとっても非常に重要な「必要条件」であるが、Dulによると、過去の経営学研究の多くは、理論を構築する時点では、必要条件であることを前提にロジックを組んでいるのに、具体的な仮説の段階になると、先ほど述べたように「XはYと関係している」「XはYに影響を与える」といった仮説となってしまい、回帰分析で仮説を検証するスタイルになってしまっている。いつの間にか十分条件のロジックにすり替わってしまっているのである。こうなってしまっていたのは、必要条件を適切に検証するための統計ツールがこれまで普及していなかったからだとDulは指摘し、よって、必要条件を分析するための方法として、必要条件分析(NCA)を提唱するに至ったのだというのである。

 

では、Dulの提唱する必要条件分析(necessary condition analysis: NCA)とはどのような分析なのだろうか。これを、XとYのデータの散布図のイメージを用いて直感的に説明すると、Xが低い時には、Yが高いデータは存在しないのだが、Xが高い時には、Yが高いデータも低いデータも両方存在するということを確認し、検証するプロセスになる。XやYが連続変数ではなく、2値変数や離散変数のときもロジックは同じである。つまり、Xが低い(ない)ときには、Yは高まらない(生じえない)から、XはYが高まる(生じる)ためには必要不可欠である(必要条件)。一方、Xが高い(存在する)からといって必ずしもYが高まる(生じる)わけではない(Yが低い、生じないケースがある)という意味で、十分条件とはいえないというわけである。

 

これを視覚的にイメージすると、散布図の左上の部分(Xが低く、Yが高いエリア)のみに、データが存在しない「空白地帯」が観察されるはずである。これが意味のある空白なのかを統計的に分析するというわけである。左上の空白地帯の三角形が、散布図全体のエリアとの比において十分に大きい場合、XはYの必要条件であることが示されることになる。具体的な計算方法や、検定方法については、Dulらの一連の著作によって解説されている。

文献

Dul, J. (2016). Necessary condition analysis (NCA) logic and methodology of “necessary but not sufficient” causality. Organizational Research Methods, 19(1), 10-52.

Necessary Condition Analysis Webpage/

「対話」としての学術論文

個別の研究課題は、学術論文として学術雑誌に掲載された時点でいったん終了する。とはいっても、学術雑誌に掲載させるまでの道のりは平たんではなく、投稿先雑誌の選定から投稿、改訂のうえ再査読などを経て掲載決定に至るが、とりわけ影響力が大きいトップジャーナルに論文を掲載させようとすれば、どこかの時点で不採択になる可能性は相当高い。多くの場合、投稿した直後にデスクリジェクトを食らうか、1回目の査読の後に掲載不可のお知らせがくる。このように、自分の学術論文を雑誌に掲載できず苦しむ場合、「対話としての研究」「対話としての論文」という視点が欠けていることが多い。そこで今回は、研究を行う姿勢や、学術雑誌の選定や投稿において「対話に参加する」という視点が大切であることを説明したいと思う。

 

学術研究というのは、1人の研究者がまったく新しい理論を構築することではない。そのような偉業は一般的な研究者にはほぼ不可能である。むしろ、学術研究とは、過去から面々となされてきている様々な研究者(論文の著者)による研究上の「対話」に、自分自身の論文を持って「参加する」ことだといえる。学問というのは、ああでもない、こうでもない、という対話が延々と展開される中で徐々に発展していくものなのである。よって、学術雑誌に論文を掲載させようとする際には、既存の研究者たちが織り成す会話に交ぜてもらったうえで、自分の論文がその会話の流れにどう影響を与えるかがポイントなのである。会話の流れにまったく影響を与えられない論文は、学術的貢献がないに等しく、その雑誌への掲載は不可という判断がなされる。逆に、「巨人の肩の上に立つ」という言葉が示すとおり、優れた研究は、過去の偉人たちによる「対話」を十分に踏まえたうえで、そこに新たな価値を付けくわえるようなものなのである。

 

学術論文における「対話」は、その分野を切り開いてきた主要人物たち、すなわち過去から継続してそのテーマの研究をし、コンスタントに論文を発表しているような大御所の研究者たちと、途中から対話に参加してきた中堅の研究者たち、より最近になって対話に参加してきたニューフェースの研究者たちによってなされている。さらに、その対話を鑑賞する聴衆がいる。学術雑誌に掲載される学術論文の場合、それは雑誌の読者であり、多くの場合は同業の研究者である。特定の雑誌に学術論文を掲載させるということは、その雑誌が主催するサロンの壇上に登ってそれまでなされてきた対話に加わることを意味し、観客席から壇上の対話を鑑賞している聴衆は、その学術雑誌の読者を意味する。このように考えると、自分の研究成果を論文としてどの学術雑誌に載せるべきかの判断基準がおのずと分かってくる。

 

まず、様々な学術雑誌で展開されている「対話」のうち、自分は、どの対話に参加したいのかを明確にする必要がある。その対話がなされている学術雑誌があれば、その対話とは全く無縁な学術雑誌もある。投稿先の選定で後者を選べば、初めから掲載される可能性がほとんどないことを意味する。参加したい対話が、類似する研究テーマを扱う複数の学術雑誌にまたがって展開されているのであれば、それらの雑誌が、投稿先として有力な雑誌である。また、どの対話に参加したいのかをまったく示さない、あるいは少なくとも読む側からしてその意図がわからないような論文は、どの学術雑誌に投稿しても門前払いを食らうことは目に見えている。

 

であるから重要なのは、「どの対話に参加したいのか」を明らかにしたうえで「対話に交ぜてもらうための準備を十分に行ってから参加する」ことである。例えば、複数の研究者であるトピックについての対話が行われているときに、まったくの外部者が突然乱入してきて自分の言いたいことだけをぶつけるようなことをしたらどうなるか。一瞬でその場の人々に拒絶反応がおき、その新参者は無視されるか対話の場からはじきだされるに違いない。これが、掲載不可の理由の多くを占める理由である。

 

継続中の対話に加わるための入念な準備をすることとはすなわち、論文の序論において、これまでの対話を自分自身はよく理解していることを示すこと、自分の発言によってどのようにその対話が発展しうるのかを示すこと、そして後続の文献レビューの箇所で、対話をしている主要な文献をひととおり展望して対話の論点を整理し、自分の発言のお膳立てをすることである。論文の冒頭で謙虚にそれを示せば、既存の対話の参加者や聴衆は、この新参者は対話に新しい視点、新しい論点、新たな気付きをもたらしてくれるかもしれないと期待し、対話の仲間に加えることを許してくれるのである。これが論文の掲載が決定することの意味である。学問を志すものは、何が真実なのかを知りたいと切に願っているわけであるから、過去の対話の誤りを指摘するような発言であっても、それが新たな気付きにつながるならば大歓迎なわけである。また、自分たちが見落としていたことを鋭く指摘し、新たな発見や論点を提示することも大歓迎なのである。

 

統計学の認識論:ベイズ主義と頻度主義

大塚(2020)は、統計的手法とは特定の科学的仮説をデータから正当化するための認識論的装置であるという視点に立ち、帰納推論によって真実に近づこうとする統計学が、いかなる形でそれによって得られる信念を知識として正当化できるのかを、ベイズ主義と頻度主義を対比させながら論じている。帰納推論の本質は、「知っていることを元手に知らないことを推論する」ことであり、ベイズ主義であろうと頻度主義であろうと共通しているのは、観測されたデータをもとにしてその背後にある確率モデルについて知ろうとすることである。大多数の科学的仮説は蓋然的であるので、統計学が扱う認識論的な推論とは、蓋然的推論を意味する。しかし、ベイズ主義と頻度主義には大きく異なる2つの点があることで、その認識論的な性質が異なっていると大塚は示唆する。

 

まず、意味論的に見てみると、ベイズ主義と頻度主義では「確率」の意味合いが根本的に異なっていると大塚はいう。ベイズ主義では、確率とは主観的な信念の度合いを測るものである。よって、例えば「ある仮説が正しい確率(=正しいと思う信念の度合い)」という表現が可能である。一方、頻度主義では、確率とは客観的な相対頻度である。これは、一定の試行を繰り返し行った際にその事象が生じる回数という意味であるから、先ほどのように、繰り返し試行するという概念を含まない「仮説が正しい確率」という使い方はできない。そして、帰納推論という視点から見ると、ベイズ主義と頻度主義では、帰納推論とはそもそも何か、帰納推論によって得られる信念が、正しい知識としてどのように正当化されるのかについての考え方が根本的に異なっている。

 

ベイズ主義では、主観的な信念としての確率をデータに基づいて調節していくことを帰納推論だと捉えている。具体的に言えば、ベイズの定理に従って、データが得られた際に事前確率と尤度(もともとの信念)を用いて事後確率(更新された信念)として確率をアップデートしていくことで真実に近づいていこうとする。このことから分かるとおり、前提となる信念の度合い(事前確率と頻度)から結論の信念の度合い(事後確率)を導くプロセスが、妥当な推論規則によって根拠づけられているという意味において正当化が可能である。しかしこれは「内在主義的認識論」に従った正当化である。すなわち、当該信念を有している本人が、その信念の理由ないし証拠をしっかりと把握しているという意味での正当化であり、主体の有する信念間の関係性として正当化を捉えているということである。

 

大塚によれば、ベイズ主義におけるこのような内在主義的な正当化には解決できない問題がある。正当化の別の側面である真理促進的(真理に近づいているという根拠)な視点から見ると、ベイズ主義では、主体内の信念の度合いを別の信念の度合いから妥当な推論によって整合的に導き出すことにのみ焦点が当てられており、それらの「内的な信念」がいかにして主体の外にある「外的な事実」と関連しているのかが全く不明なのである。すなわち、ベイズ主義的な帰納推論の前提となる諸々の信念が真であるということを保証する(正当化する)手立てはベイズ主義には含まれていないため、ベイズ主義が真理促進的なのかが不明なのである。もちろん、これらの正当化がまったく不可能だと言っているわけではなく、観測を無限に繰り返し事後確率をアップデートしつづければ真実に到達するという考え方や、ベイズ推定の結果をデータと照らし合わせることで事前分布や尤度の妥当性を確認する(正当化する)などの方法が提案されている。しかしこれらの考え方が十分な説得力を持っているとは言えない。

 

頻度主義では、データを用いて確率モデルに関する仮説が正しい確率(=信念)を更新していくというような確率の使い方ができないので、あらかじめ確率モデルについて何らかの仮説を立て、データに照らし合わせてその仮説を棄却ないし保持することを通じて確率モデルに肉薄していこうとすると大塚は説明する。ここでは、ポパー反証可能性と似た論理構造を持つ「仮説検定」が帰納推論の骨子となっている。これは、仮説を真理に漸近させるプロセスというよりは、誤りをシステマティックな仕方で退けていく帰納行動として理解できる。そして、サンプルサイズや検定力という概念を用いて、誤って正しい仮説を棄却してしまったり間違った仮説を保持してしまったりする確率が最小限になるように工夫する。その際、頻度主義の考え方に従い、特定の検定を繰り返し行った場合に間違う頻度が十分に小さい(=信頼性の高い)「検査器具」として統計手法を捉えるのである。

 

頻度主義における「信頼性の高い検査器具」という発想によって得られる信念を正当化する方法は、外在主義的な正当化あるいは信頼性主義と呼ばれる。これはすなわち、信念を形成するプロセスが誤りよりも真理をより多く生み出すという意味で信頼のおけるものであるならば、そこか生み出された信念は正当化されるという考え方である。このような信頼性の度合いは客観的な事実によって決まるため、外在主義と呼ばれるのである。外在主義によれば、信念が正当化されるかどうかは、認識者の主観的な状態だけで決まるのではなく、その外部で成立している客観的な状況に重要な仕方で依存していると考えるのである。

 

頻度主義における外在主義的な正当化は、信念が外的な事実と一致するようなプロセスによって生み出されるという意味では真理促進的であるといえるが、この正当化にも問題があることを大塚は指摘する。検定理論では、仮説の対象について正しい確率種/統計モデルの選択と正しい調査デザインの採用がなされているという前提のもとで初めてその仮説の成否についての検定プロセスの信頼性を見積もることができるわけであるが、その前提が正しいのかどうかについて体系的・理論的に評価する方法を持ち合わせてはいない。言うならば、外在主義的な正当化であるがゆえに、その正当化は外的なプロセスや状況の成否に本質的に依存している。それらの外的条件が独立に検証されて初めて真理促進性が正当化できるといえるのである。

 

大塚の説明に従って以上をまとめるならば、ベイズ主義では蓋然的推論の正当化を、内在主義に基づいた信念間の論理的整合性に帰着させるわけであるが、頻度主義では、正当化の根拠を検定を初めとする推論プロセスの信頼性に求めている。それぞれにおいて問題点は存在するが、そもそも、ベイズ主義と頻度主義では、統計的分析によって仮説が正当化されるとはどういうことなのかについての概念レベルでの意見の相違があり、その相違に目を向けずして両社の優劣は議論できない。大事なのは、それぞれの方法の背後にある認識論に目を向け、それらの正当化概念を正しく理解し、それらに自覚的になることなのだと大塚は主張するのである。

文献

大塚淳 2020「統計学を哲学する」名古屋大学出版会

統計学はどのように世界を理解しようとするのか

大塚(2020)によれば、統計学、とりわけ推測統計は、「帰納論理」「帰納推論」を通して世界を理解しようとする学問であり、統計学自身が、一定の存在論的前提に立つ科学認識論でもある。 一般的に、与えられた経験、観測、データをもとにして、まだ観測されていないし知られていない事象を推測するような帰納推論を可能にするためには、ヒュームの言うところの「自然の斉一性」を仮定することが必須となる。自然の斉一性とは、過去、未来を通して自然は同じように働くだろうという仮定を指すが、統計学では、この仮定を確率論を基礎とする「確率モデル」として定式化したうえで、帰納推論を数学的に精緻化することで世界認識の厳密性と正当性を高めている。なお、ここでいう確率とは、私たちがそこからデータを取ってくる源として想定される世界(母集団ないし標本空間)を特徴づける概念である。

 

そもそも、私たちは世界を「ありのまま」に認識することはないと大塚は言う。むしろ世界は、特定の単位に区分された状態で私たちに現れてくるという。世界から切り離されて眼前に現れる事物はそれぞれ固有の特徴を持っており、その性質に基づいて私たちは推論を行う。このように、世界に存在していると私たちが想定し、それに基づいて思考や推論を行うような離散的な単位を「自然種」と呼び、科学的思考の土台となっている。例えば化学者は様々な物質を元素という化学種に分類して、それらの元素が持つ諸特性から化学反応を説明するし、生物学者は、生物を異なる種に分類して、それぞれの種に特有な生態や特性、遺伝的機構などを明らかにする。各学問分野が探求すべき「世界」が、当該分野における自然種によって構成される、あるいはそのようなものとして把握されるとするならば、統計学(推測統計)では、様々な確率分布という「確率種」が自然種の役割を果たすと大塚は説く。

 

大塚によれば、推測統計における確率種は、二項分布、正規分布などの「分布族」と、そのパラメータによって特徴づけられる。分布族は、化学でいうところの周期表のようなものだと考えればよい。そして、統計学者は種々の帰納問題を特定の確率種に還元、帰着させることで推論を行う。つまり、推測統計では、与えられたデータの背後に何らかの構造を持った存在物を借定し、それを確率モデルとして表現し、その存在物を帰納推論を通じて推定するわけである。先述のとおり、確率モデルとはデータの背後にあると想定される「自然の斉一性」を確率論の言葉で表現したものであり、帰納推論を行うための前提条件を与える。

 

自然の斉一性としての確率モデルの想定を、「独立同一分布(independent and identically distributed: IID)」と呼ぶ。IIDという自然の斉一性の仮定があるために、ランダムサンプリングによって観測されたデータから、大数の法則中心極限定理などの大標本理論を用いて背後にある確率モデルについての帰納推論を行うことができるわけである。さらに統計学では、ある一定の範囲の分布に考察対象を絞り、IIDという自然の斉一性を仮定するのみならず、その分布がどのような種類のものかについて事前に当たりをつけるという点でより強い仮定を敷くと大塚はいう。このようにして絞り込まれた分布の集合を「統計モデル」という。

 

確率モデルがデータの背後にある世界の真なるあり方を確率の用語でモデル化したものであるのに対し、統計モデルはそのように存在が仮定された確率分布に対して私たちが立てる仮説である。よって、私たちが「真なる世界」として仮定する「確率モデル」を適切に近似しようとするのが「統計モデル」である。つまり、確率モデルは真なる世界に帰属していると仮定されており、統計モデルはそれを近似するための一種の「道具」として想定されている。統計的推論は、真なる世界の特徴として仮定された確率モデルのあり様について仮説(統計モデル)を立て、与えられたデータをもとにそれらの仮説を評価、判定することを通じて帰納推論を行う。例えばパラメトリック統計においては、あらゆる統計的仮説を分布のパラメータについての仮説であると捉え、このパラメータ仮説をデータから推論することによって帰納的推論を行うのである。

 

以上をまとめると、統計学(推測統計)は、独立同一分布(IID)という最低限の自然斉一性に関する存在論的前提に基づく確率モデルを想定し、観測されたデータから帰納推論を通してその確率モデルを理解しようとする。しかしより現実的に、有限サンプルでの帰納推論とその精度を高めるため、具体的にどのような規則性/斉一性が成立しているのか、その種類を分布族として特定する。これは、IIDのみという弱い存在論的前提に対して、より強い存在論的前提を立てることになる。そして、より強い存在論的前提を立てるほど、より幅広く効果的な帰納推論が可能になっていく。ただし、自然種の存在を仮定し、世界は自然種によって分節化されていると考えるような存在論的な前提は、マッハような実証主義者から見れば非科学的だと糾弾される。しかし、自然の斉一性も含め、経験に基づかない存在論的前提を置かなければ、帰納的推論自体が成り立たない。よって、IIDは帰納推論を行うための最低限に必要な条件だとして、それに加えて確率種(分布族)のような強い存在論的前提を置くほど効果的な帰納推論が可能になるが、その反面、そのような前提を置くこと自体が非科学的だという批判の対象にもなるというトレードオフが存在しているといえよう。

文献

大塚淳 2020「統計学を哲学する」名古屋大学出版会

ベイズ主義、尤度主義、頻度主義の関係性

科学は、数学のように論理のみで閉じた世界ではなく、理論や仮説を常に経験(証拠)と照らし合わせることで発展する。観測から得られる経験や証拠には確率的要素を排除できないため、科学的方法の根幹を支えるのが、統計的推論であるといえる。研究の過程で得られた証拠によって、特定の理論や仮説が正しいあるいは真である(尤もらしい、確からしい)といえるのか、あるいは、対立する理論や仮説があるときに、得られた証拠によってその優劣をどう判断するのか。そこには、統計的推論が必要不可欠なわけである。統計的推論を一言でいえば、科学において証拠の果たすべき役割は何かについての推論である。しかし、この統計的推論の方法には異なる考え方があって、現在に至ってもどれが最も適切なのかについての結論が出ているわけではない。

 

ソーバー(2012)は、この統計的推論を、大きく「ベイズ主義」「尤度主義」「頻度主義」に分類し、それぞれの推論の仕方を丹念に説明している。それぞれについて説明する前に、証拠と統計的推論との関係を、ソーバーが紹介するロイヤルの3つの問いで理解しよう。1つ目は、現在の証拠から何がわかるか(例、理論や仮説との関連性)、2つ目は、何を信じるべきか(例、理論や仮説が正しいか否か、別の理論のほうが適切か否か)、3つ目は、何をするべきか(例、追試をする、論文を書く)である。より現実的な話でいうならば、1つ目は、ある病気の検査を受けた時の結果(例、陽性)が出たときに何がわかるか、2つ目は、その証拠によって自分が病気であると信じるか、3つ目は、その結果、治療を開始するか、あるいは再度検査を行うかなどに例えられる。

 

まず、ベイズ主義から始めよう。ベイズ主義では、科学の目的を「証拠が手元に与えられたときに、真であることが確からしい理論はどれか」を見つけ出すことだとソーバーはいう。とりわけ、ロイヤルの2つ目の「何を信じるべきか」について、ベイズ主義は命題を信じるか信じないかといった2分法的な概念を、信念の度合いという概念に置き換え、その信念の度合いに対応する確率を当てはめる。具体的には、新たな証拠が得られた際に、ベイズの定理に基づいて「事前確率」と「尤度」を組み合わせて「事後確率」を求め、さらには、もともとの事前確率を得られた事後確率で置き換えることで更新し、別の新たな証拠が得られた際に、更新された事前確率と尤度を組み合わせて事後確率を求める。このような繰り返しの方法に基づき、ベイズ主義では、ある命題の確証とは、その命題が正しいという確率を上げることだと定義し、反証はその確率を下げることだと定義する。ベイズ主義は、「帰納によって知識を得る」という経験論哲学の考え方を進めた点で、科学的推論の理解に大きな貢献をしているとソーバーは指摘する。

 

つぎに、尤度主義についてである。ベイズ主義でも登場した「尤度」とは、検討したい命題が真であるときに特定の事象が起こる確率(条件付き確率)である。ここで、統計的推論において、検討したい命題は真であるかどうかは分かっていないという点を忘れてはいけない。仮に検討している命題が真だとするとある事象がどれくらいの確率で起こるかということに関する知識である。例えば、自分が病気か否かが分からない状態でも、病気であったときに検査で陽性がでる確率が分かっている場合、これが尤度に相当する。ベイズ主義では、事前確率や尤度が経験より正当化できる場合は問題ないが、例えば事前確率に主観的要素が多く入ってくるならば、ロイヤルの1つ目の「証拠から何がわかるか」について慎重にならざるを得ないことをソーバーは示唆する。

 

そこで、尤度主義では、明確な尤度を持つ仮説のみを互いに比較することで判断をしようとする方法をとる。例えば、得られた証拠に対する仮説Aと仮説Bがあるとするならば、尤度A(仮説Aが正しいときに証拠が生じる確率)と尤度B(仮説Bが正しいときに証拠が生じる確率)を比較し、尤度A>尤度Bであるならば、仮説Aを選択する。正確性の高い検査(尤度が既知である)で、ある病気の陽性が出た場合、その病気にかかる確率が事前に分かっている場合(例えば難病だがかかる確率は非常に低い)は、ベイズ主義に基づいて事前確率と尤度を組み合わせて、なおその病気にかかっている確率は低いという判断を下せる場合があるが、事前確率が分からない場合には、あえて主観的な事前確率を用いることをせず、尤度主義によって、尤度A(病気にかかっていた場合に陽性になる確率)と尤度B(病気にかかっていない場合に陽性になる確率)を比較して、病気にかかっているという仮説を選択するという手順になる。

 

頻度主義は統計学では最も標準的な考え方ではあるが幾分分かりにくい。ソーバーによれば、頻度主義は1つに統一された理論ではなく、互いにゆるやかに結びついた様々な手法の寄せ集めである。ただ、頻度主義(そして尤度主義でも)では、ベイズ主義のように、仮説に確率を割り当てる(仮説が正しい確率はどれくらいか)というような問いは認めない。むしろ、規則が繰り返し得られたときに得られる、よい結果(例、正しい判断)と悪い結果(間違った判断)の(期待される)頻度を吟味し、悪い結果(間違った判断)に陥る頻度が小さいように推論を進めていく方法を重視する。ソーバーは、フィッシャーの有意検定という考え方と、ネイマン=ピアソンの仮説検定理論をまずは紹介している。

 

ソーバーの解説によると、Hを仮説、Oを観察で得た証拠とするならば、フィッシャーの有意検定は、モーダス・トレンス(後件否定:「HならばO」「Oでない」→「Hでない」という推論規則)を確率論的に拡張したものに基づいている。すなわち、HならばOが起こる確率が非常に高いなかで、Oを否定する証拠を得た場合、Hを偽とみなす(棄却する)のである。確率論的モーダス・トレンスは演繹的には妥当とは言えないので、確率の境界線をどこに引くのかが問題となる。つまり、Oの否定がHを棄却することを正当化するために、その証拠が得られる確率がどれくらい低いのかを決めなければならないということである。この問題はそう簡単ではないとソーバーは指摘する。

 

ネイマン=ピアソンの仮説検定理論は、「謝る確率が大きいものよりも、小さいもののほうがよい」という自明の理が出発点になっているとソーバーはいう。具体的には、帰無仮説が棄却されればその対立仮説が支持されるという構図において、第1種の誤り(誤って帰無仮説を棄却してしまう誤り: その確率=α)と第2種の誤り(あやまって帰無仮説を支持してしまう誤り:その確率=β)の2つの誤りを考え、その誤りの深刻さの度合いによってどちらかの誤りを冒す可能性を最小限にとどめることを優先したうえで、もう一方の誤りの可能性を減らすようにする。これについてネイマン=ピアソンの仮説検定理論では、まずαの値を設定し(例えば、0.05)、次いでβの値を最小にしようとする。ただし、この考え方は、異なる仮説を比較したり選択したりするような目的にはあまりフィットしない。

 

異なる理論やモデルの比較に関しては、ソーバーは、ネイマン=ピアソン流の標準的な方法として尤度比検定というものをまずは紹介する。これは、異なる理論やモデルの尤度の比を用いて、この比がある恣意的に決められた有意水準より小さいかどうかを検定するというものである。その後ソーバーは、頻度主義に基づくモデル選択理論を詳しく説明し、赤池の定理と赤池情報量基準(AIC)について説明している。AICこちらでも説明している。AICは、赤池の定理において、頻度主義者が重視する統計的性質である長期的試行での「不偏性」を推定手続きに含めている点で、頻度主義に含めることができることをソーバーは示唆する。AICは、既存のデータに適合したモデルが将来のデータをどれくらい正確に予測できるかという問いを包含している。AICによれば、偽のモデルが真のモデルよりも予測正確性が高いことも考えられるため、道具主義(科学の目的は予測の正確な理論を見つけること)と実在論(科学の目的は真なる理論の発見にある)という哲学的議論に新たな息吹を吹き込むのだという。

 

さて、ソーバーによる「ベイズ主義」「尤度主義」「頻度主義」の関係性の理解をまとめると、科学は常に「証拠から確かに言えることは何か」を本題として扱うべきだという徹底した「客観主義」の視点から、「尤度主義」が「ベイズ主義」と「頻度主義」の中間地点に立ち、それぞれに対して共同戦線を結ぶことが可能であるということである。尤度主義とベイズ主義の共同戦線とは、ベイズ主義における「事前確率」が客観的に与えられる場合には、尤度主義はベイズ主義に従うべきであり、事前確率が客観的でない場合には、尤度主義が前線に出ることである。この場合、問いが「どの理論が真であることが確からしいか(何を信じるべきか)」から「どの理論がその証拠によって最も裏付けられるか(何がわかるか)」に移るという。

 

尤度主義と頻度主義の共同戦線は、とりわけ赤池情報基準(AIC)との関連性にある。尤度主義では、仮説に基づく観察結果の確率を示す尤度の特定は「単純仮説」では可能であるが、求める必要のある尤度が無数に存在するような「複合仮説」では不可能である。一方、AICでは「真理とは」という問いと「正確な予測とは」という問いの両方を扱うことで複合仮説を扱うことが可能である。このような複合仮説への対処が必要になるときは、AICが尤度主義との共同戦線に現れることになるとソーバーは考えているという。この場合、問いが「異なるそれぞれの仮説が真であることに対し、証拠がどのような関係を持つか」から「証拠に基づけばどのモデルが最も予測正確性がよいのか」に移るという。 

 

文献

エリオット・ソーバー(松王政浩 訳)2012「科学と証拠―統計の哲学 入門」名古屋大学出版会

経営学における「探求する精神」:基礎科学から何を学べるか

経営学は応用的な学問分野であるため、「経営学は実務の役に立つのか」というのは常につきまとう問いである。実務の役に立つ経営学研究はどのようにすれば可能なのかという問いに置き換えてもよいだろう。今回は、この問いに答えるために、大栗(2021)が基礎科学において主張する「価値ある研究は探求する精神から生まれる」という考え方を参考にしてみよう。

 

まず大栗は、現代の研究の意義を考えるうえで役立つ概念として「目的合理的行為」と「価値合理的行為」の2つを挙げる。目的合理的行為とは、何かあらかじめ設定された目的に最も効率的に到達するために合理的に選択される行為で、価値合理的行為は、行為自身の価値のために行うものである。工学部のように何がどのように役に立つかわかるような学問分野を研究するのは目的合理的行為であるのに対して、大栗のような物理学者は、自然界の基本法則の発見やそれを使った自然現象の解明という行為自身に価値があると考えて研究しているので、理学部や人文系の学問の多くは価値合理的行為だといえる。

 

では、大栗が行っている素粒子論の研究のように、価値合理的行為の最たるものは、人類や社会の役に立つといえるのだろうか。これに対して大栗は、一見役に立ちそうにもない好奇心に駆られた研究が、長い目で見ると社会に大きな利益をもたらす例は数多くあるといい、「科学の歴史において、人類に利益をもたらした重要な発見のほとんどは、役に立つためではなく、自分自身の好奇心を満たすために研究にかきたてられた人々によって成し遂げられた」というフレクスナーの言葉を紹介している。基礎科学の研究は知的好奇心に駆られて行うもので、何かあらかじめ与えられた目的を効率的に達成するものではないが、それは、役に立つことを目的として成し遂げられたことよりも、無限に大きな重要性を持つことがあるというのである。

 

例えば、実業家イーストマン(イーストマン・コダック創業者)が、科学において世界でもっとも有益な研究をしたのはマルコーニだ(無線通信の発明) といったコメントに対して、フレクスナーは「真の功労者はマクスウェルだ」と指摘したという話を大栗は紹介している。つまり、マクスウェルが「電磁波」を予言し、電気や磁気の現象がすべて一組の方程式で説明できることを発見したことが発端となってマルコーニによる無線通信への実用化に至ったというわけである。マクスウェルは、無線通信という応用を目指して研究していたわけではなく、ひたすら自らの探求心に導かれた研究によってその方程式を発見したのである。

 

また大栗は、カリフォルニア工科大学の元学長シャモー氏の「科学の研究が何をもたらすかをあらかじめ予測することはできないが、真のイノベーションは人々が自由な心と集中力を持って夢を見ることのできる環境から生まれることは確かである」「一見役に立たないような知識の追究や好奇心を応援することは、わが国の利益になることであり、守り育てていかなければいかねい」という言葉を紹介している。要するに「精神と知性の自由こそ、圧倒的に重要だ」ということなのであるが、その理由は、基礎科学としての価値ある発見は、幅広い自然現象を説明でき多くの科学の発展につながる、そうした大きな流れのすそ野には、社会に有益な技術への応用も当然含まれてくるからなのだと大栗は論じる。

 

基礎科学において価値の高い発見をするために決定的に重要なのは、科学者の磨き抜かれた探求心だと大栗は主張する。研究者の探求心は卓越したものでなければならない。したがって、工学のような目的合理的な研究の場合は、それがどのように役に立つのか、またその目的が達成できる見込みがあるのかというのが重要であるが、湯川秀樹のいうところの「地図を持たない旅」のような基礎科学の場合、「意識の本来の機能でもある、より深く、より正しく物事を理解しようとする」研究者自身の探求心がどれほど優れたものなのか、またその探求心に導かれた研究を遂行するだけの能力を持っているかが研究成果の価値を左右するというのである。

 

さて、経営学研究者は「探求する精神こそが最も重要」だとする基礎科学における主張から何を学ぶことができるだろうか。まず考えるべきことは、経営学研究は工学や法学に近い目的合理的行為なのか、理学や人文学に近い価値合理的行為なのかである。これについては、経営学は学際分野でもあるため、両方の立場があってもよいだろう。前者では、現在のビジネス環境において、企業が利益を高めるという目的を効率的に実現するような研究を志向することになるだろう。しかし、どのように役に立つのかが分かり、短期的には大きな利益を生む可能性のある研究に社会の資源を集中的に投入すると、逆に大きな損失を招くこともあると大栗は指摘する。何故かというと、何が役に立つかは時間とともに変化しうるため、価値の軸が変わると役に立たなくなってしまうからだという。

 

よって、経営学においても、基礎科学のような好奇心や探求する精神に駆られた価値合理的行為としての研究も重要であるに違いない。これは、必ずしも現在の企業経営の実践に役立つことを目的とする研究ではない。研究の対象とする経営にかかわる現象について、例えば、組織行動論でいえば「組織における人間行動のメカニズム」について、より根源的に考え、「より深く、より正しく物事を理解したい」という好奇心や探求心に駆られて行う研究である。もちろん、「根源性」を追求するのであれば、それは、組織という文脈を超えて人間関係や人間行動の本質を理解するという探求心につながり、社会心理学基礎心理学、さらには、人間行動を生み出す生物学的基礎としての神経科学、脳科学進化心理学といった分野にまで到達してしまうであろう。

 

どこまで深く、掘り下げていくかは難しい問題であるにせよ、組織行動論で言えば、「どうなっているのだろう」「なぜだろう」という好奇心、探求心に駆動されて発見された、組織における人間行動に関する新たな発見は、それに実践的な価値を見出す人々によって、企業経営の実践に役立つ知識や教育や経営手法の開発などにつながっていくだろう。組織行動論に限らず、経営戦略論でも組織論でも、その他の経営学でも、同じことが言えるだろう。ただ、このような姿勢で研究を行うためには、卓説した探求心とそれを粘り強く追究しようとする姿勢、そして、それを遂行する能力は必須であろう。

文献

大栗博司 2021「探究する精神 職業としての基礎科学」(幻冬舎新書)