「対話」としての学術論文

個別の研究課題は、学術論文として学術雑誌に掲載された時点でいったん終了する。とはいっても、学術雑誌に掲載させるまでの道のりは平たんではなく、投稿先雑誌の選定から投稿、改訂のうえ再査読などを経て掲載決定に至るが、とりわけ影響力が大きいトップジャーナルに論文を掲載させようとすれば、どこかの時点で不採択になる可能性は相当高い。多くの場合、投稿した直後にデスクリジェクトを食らうか、1回目の査読の後に掲載不可のお知らせがくる。このように、自分の学術論文を雑誌に掲載できず苦しむ場合、「対話としての研究」「対話としての論文」という視点が欠けていることが多い。そこで今回は、研究を行う姿勢や、学術雑誌の選定や投稿において「対話に参加する」という視点が大切であることを説明したいと思う。

 

学術研究というのは、1人の研究者がまったく新しい理論を構築することではない。そのような偉業は一般的な研究者にはほぼ不可能である。むしろ、学術研究とは、過去から面々となされてきている様々な研究者(論文の著者)による研究上の「対話」に、自分自身の論文を持って「参加する」ことだといえる。学問というのは、ああでもない、こうでもない、という対話が延々と展開される中で徐々に発展していくものなのである。よって、学術雑誌に論文を掲載させようとする際には、既存の研究者たちが織り成す会話に交ぜてもらったうえで、自分の論文がその会話の流れにどう影響を与えるかがポイントなのである。会話の流れにまったく影響を与えられない論文は、学術的貢献がないに等しく、その雑誌への掲載は不可という判断がなされる。逆に、「巨人の肩の上に立つ」という言葉が示すとおり、優れた研究は、過去の偉人たちによる「対話」を十分に踏まえたうえで、そこに新たな価値を付けくわえるようなものなのである。

 

学術論文における「対話」は、その分野を切り開いてきた主要人物たち、すなわち過去から継続してそのテーマの研究をし、コンスタントに論文を発表しているような大御所の研究者たちと、途中から対話に参加してきた中堅の研究者たち、より最近になって対話に参加してきたニューフェースの研究者たちによってなされている。さらに、その対話を鑑賞する聴衆がいる。学術雑誌に掲載される学術論文の場合、それは雑誌の読者であり、多くの場合は同業の研究者である。特定の雑誌に学術論文を掲載させるということは、その雑誌が主催するサロンの壇上に登ってそれまでなされてきた対話に加わることを意味し、観客席から壇上の対話を鑑賞している聴衆は、その学術雑誌の読者を意味する。このように考えると、自分の研究成果を論文としてどの学術雑誌に載せるべきかの判断基準がおのずと分かってくる。

 

まず、様々な学術雑誌で展開されている「対話」のうち、自分は、どの対話に参加したいのかを明確にする必要がある。その対話がなされている学術雑誌があれば、その対話とは全く無縁な学術雑誌もある。投稿先の選定で後者を選べば、初めから掲載される可能性がほとんどないことを意味する。参加したい対話が、類似する研究テーマを扱う複数の学術雑誌にまたがって展開されているのであれば、それらの雑誌が、投稿先として有力な雑誌である。また、どの対話に参加したいのかをまったく示さない、あるいは少なくとも読む側からしてその意図がわからないような論文は、どの学術雑誌に投稿しても門前払いを食らうことは目に見えている。

 

であるから重要なのは、「どの対話に参加したいのか」を明らかにしたうえで「対話に交ぜてもらうための準備を十分に行ってから参加する」ことである。例えば、複数の研究者であるトピックについての対話が行われているときに、まったくの外部者が突然乱入してきて自分の言いたいことだけをぶつけるようなことをしたらどうなるか。一瞬でその場の人々に拒絶反応がおき、その新参者は無視されるか対話の場からはじきだされるに違いない。これが、掲載不可の理由の多くを占める理由である。

 

継続中の対話に加わるための入念な準備をすることとはすなわち、論文の序論において、これまでの対話を自分自身はよく理解していることを示すこと、自分の発言によってどのようにその対話が発展しうるのかを示すこと、そして後続の文献レビューの箇所で、対話をしている主要な文献をひととおり展望して対話の論点を整理し、自分の発言のお膳立てをすることである。論文の冒頭で謙虚にそれを示せば、既存の対話の参加者や聴衆は、この新参者は対話に新しい視点、新しい論点、新たな気付きをもたらしてくれるかもしれないと期待し、対話の仲間に加えることを許してくれるのである。これが論文の掲載が決定することの意味である。学問を志すものは、何が真実なのかを知りたいと切に願っているわけであるから、過去の対話の誤りを指摘するような発言であっても、それが新たな気付きにつながるならば大歓迎なわけである。また、自分たちが見落としていたことを鋭く指摘し、新たな発見や論点を提示することも大歓迎なのである。