統計学の認識論:ベイズ主義と頻度主義

大塚(2020)は、統計的手法とは特定の科学的仮説をデータから正当化するための認識論的装置であるという視点に立ち、帰納推論によって真実に近づこうとする統計学が、いかなる形でそれによって得られる信念を知識として正当化できるのかを、ベイズ主義と頻度主義を対比させながら論じている。帰納推論の本質は、「知っていることを元手に知らないことを推論する」ことであり、ベイズ主義であろうと頻度主義であろうと共通しているのは、観測されたデータをもとにしてその背後にある確率モデルについて知ろうとすることである。大多数の科学的仮説は蓋然的であるので、統計学が扱う認識論的な推論とは、蓋然的推論を意味する。しかし、ベイズ主義と頻度主義には大きく異なる2つの点があることで、その認識論的な性質が異なっていると大塚は示唆する。

 

まず、意味論的に見てみると、ベイズ主義と頻度主義では「確率」の意味合いが根本的に異なっていると大塚はいう。ベイズ主義では、確率とは主観的な信念の度合いを測るものである。よって、例えば「ある仮説が正しい確率(=正しいと思う信念の度合い)」という表現が可能である。一方、頻度主義では、確率とは客観的な相対頻度である。これは、一定の試行を繰り返し行った際にその事象が生じる回数という意味であるから、先ほどのように、繰り返し試行するという概念を含まない「仮説が正しい確率」という使い方はできない。そして、帰納推論という視点から見ると、ベイズ主義と頻度主義では、帰納推論とはそもそも何か、帰納推論によって得られる信念が、正しい知識としてどのように正当化されるのかについての考え方が根本的に異なっている。

 

ベイズ主義では、主観的な信念としての確率をデータに基づいて調節していくことを帰納推論だと捉えている。具体的に言えば、ベイズの定理に従って、データが得られた際に事前確率と尤度(もともとの信念)を用いて事後確率(更新された信念)として確率をアップデートしていくことで真実に近づいていこうとする。このことから分かるとおり、前提となる信念の度合い(事前確率と頻度)から結論の信念の度合い(事後確率)を導くプロセスが、妥当な推論規則によって根拠づけられているという意味において正当化が可能である。しかしこれは「内在主義的認識論」に従った正当化である。すなわち、当該信念を有している本人が、その信念の理由ないし証拠をしっかりと把握しているという意味での正当化であり、主体の有する信念間の関係性として正当化を捉えているということである。

 

大塚によれば、ベイズ主義におけるこのような内在主義的な正当化には解決できない問題がある。正当化の別の側面である真理促進的(真理に近づいているという根拠)な視点から見ると、ベイズ主義では、主体内の信念の度合いを別の信念の度合いから妥当な推論によって整合的に導き出すことにのみ焦点が当てられており、それらの「内的な信念」がいかにして主体の外にある「外的な事実」と関連しているのかが全く不明なのである。すなわち、ベイズ主義的な帰納推論の前提となる諸々の信念が真であるということを保証する(正当化する)手立てはベイズ主義には含まれていないため、ベイズ主義が真理促進的なのかが不明なのである。もちろん、これらの正当化がまったく不可能だと言っているわけではなく、観測を無限に繰り返し事後確率をアップデートしつづければ真実に到達するという考え方や、ベイズ推定の結果をデータと照らし合わせることで事前分布や尤度の妥当性を確認する(正当化する)などの方法が提案されている。しかしこれらの考え方が十分な説得力を持っているとは言えない。

 

頻度主義では、データを用いて確率モデルに関する仮説が正しい確率(=信念)を更新していくというような確率の使い方ができないので、あらかじめ確率モデルについて何らかの仮説を立て、データに照らし合わせてその仮説を棄却ないし保持することを通じて確率モデルに肉薄していこうとすると大塚は説明する。ここでは、ポパー反証可能性と似た論理構造を持つ「仮説検定」が帰納推論の骨子となっている。これは、仮説を真理に漸近させるプロセスというよりは、誤りをシステマティックな仕方で退けていく帰納行動として理解できる。そして、サンプルサイズや検定力という概念を用いて、誤って正しい仮説を棄却してしまったり間違った仮説を保持してしまったりする確率が最小限になるように工夫する。その際、頻度主義の考え方に従い、特定の検定を繰り返し行った場合に間違う頻度が十分に小さい(=信頼性の高い)「検査器具」として統計手法を捉えるのである。

 

頻度主義における「信頼性の高い検査器具」という発想によって得られる信念を正当化する方法は、外在主義的な正当化あるいは信頼性主義と呼ばれる。これはすなわち、信念を形成するプロセスが誤りよりも真理をより多く生み出すという意味で信頼のおけるものであるならば、そこか生み出された信念は正当化されるという考え方である。このような信頼性の度合いは客観的な事実によって決まるため、外在主義と呼ばれるのである。外在主義によれば、信念が正当化されるかどうかは、認識者の主観的な状態だけで決まるのではなく、その外部で成立している客観的な状況に重要な仕方で依存していると考えるのである。

 

頻度主義における外在主義的な正当化は、信念が外的な事実と一致するようなプロセスによって生み出されるという意味では真理促進的であるといえるが、この正当化にも問題があることを大塚は指摘する。検定理論では、仮説の対象について正しい確率種/統計モデルの選択と正しい調査デザインの採用がなされているという前提のもとで初めてその仮説の成否についての検定プロセスの信頼性を見積もることができるわけであるが、その前提が正しいのかどうかについて体系的・理論的に評価する方法を持ち合わせてはいない。言うならば、外在主義的な正当化であるがゆえに、その正当化は外的なプロセスや状況の成否に本質的に依存している。それらの外的条件が独立に検証されて初めて真理促進性が正当化できるといえるのである。

 

大塚の説明に従って以上をまとめるならば、ベイズ主義では蓋然的推論の正当化を、内在主義に基づいた信念間の論理的整合性に帰着させるわけであるが、頻度主義では、正当化の根拠を検定を初めとする推論プロセスの信頼性に求めている。それぞれにおいて問題点は存在するが、そもそも、ベイズ主義と頻度主義では、統計的分析によって仮説が正当化されるとはどういうことなのかについての概念レベルでの意見の相違があり、その相違に目を向けずして両社の優劣は議論できない。大事なのは、それぞれの方法の背後にある認識論に目を向け、それらの正当化概念を正しく理解し、それらに自覚的になることなのだと大塚は主張するのである。

文献

大塚淳 2020「統計学を哲学する」名古屋大学出版会