包丁に学ぶ処世術

昔中国に、庖(コック)の「丁さん」という人がおり、君主の前で素晴らしい刃捌きをして牛の骨と肉を切り裁いたそうである。


そのときに、君主が感激して「そこまですごい技ができるのか!」といったところ、丁さんは、私は技ではなく、道(人としての正しい生き方、大自然の摂理)を追求しているのです」と答えたそうな。この精神は、茶道や剣道など、「道」という言葉のつくあらゆる稽古事に通じるものである。お茶の入れ方や剣の使い方という「技術」を学ぶのではなくて、そのような稽古や修行を通じて、人としての生き方を学ぶということだ。


http://www.ichimonji.co.jp/hanasi/rekishi.html

むかし、庖丁という名の料理人が魏の恵王(文恵君)のまえで、 1頭の牛を料理して見せました。
その鮮やかな包丁さばきで、優雅な踊りを舞うように、みるみるうちに  肉が骨から切り離されていきます。
恵王がその華麗な技をほめると、庖丁は「私は19年も同じ牛刀を使いつづけても、今砥石に当てたばかりのように輝いている、 それは牛の皮と肉、肉と骨の隙間に巧みに刃を滑らせるだけで、無理なく自然の摂理に そって牛を解体するのです。」と答えました。それをきいた文恵君は、「善いことを聞いた、養生(正しい生き方)を会得した」と喜んだそうです。
つまり生きていく上で、無理をせず理にかなった正しい行いをしていけば、 困難や苦労も案外スムーズに乗り切れるという事です。この話から料理名人  庖丁の名が後世に伝わり包丁という言葉ができました。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/yousyei.html

文恵君はあ〜見事だな、技も極まるとここまでになるのかと喜んだ。すると包丁、刀をおいて申し上げる。「わたしめは道を求めておりまして、単なる技より勝っています。わたしめも、はじめ見習いの時は、目の前が牛でいっぱいでした。しかし三年の後にはもはや、牛の全体は目に入りません。今に至りましては心の内なる像に対していて、目によって捉えません。外部の知覚器官は止まっているままで、心の欲するところが行なわれます。肢体の仕組みにしたがって、皮と肉、肉と骨の大きな隙間では刀は走り、筋が入り組み骨と肉が絡まったところでも一刀のもとに切り込んで、やり直しはありません。ところで腕のよい者でも年に一度は刀を取り換え、たいていの者は一月ごとに刃を折るものです。しかし、わたしめの牛刀は十九年、数千頭もの牛を解体してきましたが、ほんのいま研ぎあげた刃物のようであります。それと言いますのも、あの骨・節には隙間がありますが、刃先は厚みがないようなものです。厚みのないもので隙間に入っていくのですから広々としたものでいくらでもゆとりがあって、十九年も使っているのに刃先は研ぎ出したままのようです。そうは申しましても要所を前にしましてはわたしめもその難しさに心を引き締めます。目を凝らしてしっかりと対象を捉えます。牛刀の歩みもゆっくりと進み、刃先と対象のかすかな手ごたえを確かめています。そして、ドサッと土塊が地面に落ちたように肉のかたまりはすっかり切り離されてしまいます。しばし牛刀を手に立ち止まり、仕事の結果を確かめ、心に満足ゆくものであれば、はじめて牛刀をぬぐって鞘に収めるのです。」
文恵君が言う「すばらしい!わたしは包丁の話を聞いて処世の秘訣を得た。」

庖丁は「私の追求しているのは道であり、それは技を超えたもの」と答えたが、牛の体の天然の節目に沿って刃を滑らせていく庖丁の刃さばきは、単なる技術のレベルを超えた、人間のあるべきあり方を示す「道」に至っているということを言わしめたわけである。

参考文献

風水講義