場所の論理

松岡正剛の千夜千冊
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1060.html


清水博が唱える「場の文化」
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/kappa/4honsimi.html

清水博は「共生の論理」にもとづく文化、それは「違いを認める文化」でもあるが、そういう文化を「場の文化」と呼んでいる。そして、日本は歴史的に仏教を基礎に普遍的な「場の文化」を生み出した経験をもつ、世界でも特異な国であると言っている。

場所の重要性
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/nisida1.html
「場所の論理」・・・主語と述語・・・判断のメカニズム
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/nisida10.html


http://www.seibun-ken.jp/2004ibunka1-4.htm

主体の価値が低く、場合によっては主語もなくなるということになると、世界の中心はどこにあるのかという問題が出てくる。主体を中心におくなら「私」が中心になり、世界は私の周りにあることになるが、主体・主語が曖昧だと、世界の中心はどこにあるのか、世界はどういう風に統合されるのか、その統一性はどこから出てくるのかということが問題になる。西田幾多郎時枝誠記のこれについての考えは、「西洋文化は主語の論理を基礎にしているが日本文化は場所の論理を基礎にしている」というものである。
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日本人が景色を見る時は何かの上に立ってそれを見るというよりは、その中に引きこもって内側から見るという傾向がある。専門家はこれを「子宮回帰」――母の中にもどる――と名づけ、「場」の論理を母性の論理と関連させている。


松岡正剛の千夜千冊
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/

日本では、場所について考えるときには大きくは二つの流れに注目したい。
 ひとつは、古代から「斎きの庭」とか「結界」として意識されてきた場所である。ここにはたいていムスビ(産霊)がこめられてきた。そのムスビのエージェント・モデルが神籬である。もうひとつは、西田幾多郎の「場所の論理」に発想された場所論だったろう。西田は最初はプラトンプロティノスふうの「形質をうけとる場所」と「観念をうけとる場所」とを二つながら考え、それを「述語としての場所」に発展させようとしていたのだが、そのうち、そのようにわれわれに対して述語的に場所がはたらくのは、そこになんらかの媒介する論理があるはずだとみなして、その媒介者を「M」と名付けた。西田がしばらくその「M」を追って、そこに「無の介在」を認めるようになったことは、その後の日本哲学の静かな主流になっていくのだが、ここで西田哲学を説明するのはやめておく。