エージェントベースモデルで学ぶ「組織のゴミ箱モデル」

経営学や組織論を勉強したことがあれば、組織における意思決定の「ゴミ箱モデル」というものに遭遇したことが何度かあるだろう。オリジナルなゴミ箱モデルは、1972年というかなり昔にコーエンらによって提唱されたものである。経営学や組織論においてこのモデルがよく知られている理由の1つは、ネーミングにインパクトがあることだろう。組織を「ゴミ箱」のメタファーで表現することで、伝統的な合理性を前提とした組織論や規範的な意思決定の研究に対するアンチテーゼを直感的にわかりやすい形で表明している。また、このモデルは、現実の組織を対象としたフィールド調査ではなくコンピュータ・シミュレーションを用いた研究が経営学や組織論で必ずといって良いほど登場する代表的なモデルの1つになったという点が特徴的である。

 

ゴミ箱モデルについてはネットで検索すれば山ほど説明が出てくるのでその詳細をここでは説明しないが、今回紹介するのは、このゴミ箱モデルを「エージェントベースモデル」を用いたコンピュータ・シミュレーション再現し、かつ改良を加えたというFioretti & Lomi (2010)の研究である。ゴミ箱モデルが提唱された1972年と比べれば、コンピュータの性能には天と地ほどの差があり、エージェントベースモデルをコンピュータを用いて使えば、個々のエージェントの振る舞いが全体としてどのような現象を創発させるのかをビジュアルに確認することが可能である。実際、Fioretti & Lomiは、NetLogoを用いてゴミ箱モデルを再現しており、そのプログラムコードは公開されている。以下のNetLogo Webを使用すれば、ソフトウェアをPCにインストールすることなく、ウェブベースでゴミ箱モデルを実際に体験できる。

 

Fioretti & Lomi によるNetLogoのコードは以下からダウンロード可能である。

NetLogo Webは以下のサイトで動かすことができる。こちらのサイトでFioretti & Lomi が作成したコードを読み込んで実行すればよい。

ゴミ箱モデルそのものの詳細な説明は割愛しつつ、このモデルがどのように「エージェントベースモデル」に「翻訳」されたのかを説明しよう。エージェントベースモデルでは、個々のエージェントの相互作用が全体現象の創発につながるという前提を置くが、ゴミ箱モデルに照らし合わせると、組織の中における「参加者(メンバー)」「選択の機会」「解」「問題」をエージェントとして、これらのエージェントが自律的に組織内を動き回るというようにモデル化する。そして、これらが組織スペース上のある位置で出会った際のパターンによって、組織で起こる意思決定(問題解決、形式的決定・見逃し)や非意思決定(やり過ごし、先送り、他者への押し付け)が起こるというプロセスをルール化する。さらに、組織における階層性を表現するために、参加者(メンバー)の地位の高低を設定し、その他、参加者の能力、問題の難しさ、選択機会の重要度などを設定する。

 

さまざまな条件のもとでシミュレーションを走らせるわけだが、適切な形で「参加者(メンバー)」「選択の機会」「解」「問題」の全部が揃えば、適切な問題解決が意思決定としてなされたと判断し、参加者以外を組織から消す。適切な形というのは、階層の上位にいるメンバーが重要度の高い選択機会と出会うというような具合に定義する。しかし、適切な形で「参加者(メンバー)」「選択の機会」「解」のみが揃えば、問題が認識されることなく「形式的に」何かが決定されると判断し、参加者以外を消す。これは例えば、会議で形式的、ルーティン的、あるいは惰性的に何かが決定されて前に進むようなものである。しかるべき会議で特定のプロジェクトの進捗が報告され、そのまま前に進めるような決定がなされるようなものである。そこでは問題が俎上に上がることなく、審議事項が議題に上がってなんらかの形で意思決定がなされるだけであるが、そのような形式的な意思決定も組織では日常的に行われているし、組織運営にとって必要だという解釈となる。

 

また、問題と参加者が出会ったときに、問題の難度が参加者の能力を超えているような場合には、問題のやり過ごし(先送り)や他者への押し付けが行われる。この場合、問題は、適切な形で「参加者(メンバー)」「選択の機会」「解」と出会うまで、ぐるぐると組織内を巡り続ける。そのため、組織のメンバーから見ると、あの問題は過去にやり過ごしたはずだが、また俎上に上がってきた、私には荷が重いので今回もやり過ごそう、誰かに押し付けよう、みたいな経験が多く発生する。しかし、それは根本的な問題解決がなされないまま組織運営が継続することを意味するので、その問題は解決されずに組織内に残ってしまい、またどこかで頭を出してくることは直感的にも理解可能である。

 

エージェントベースモデルの利点の1つは、一見すると「変な」あるいは「不思議な」結果を生み出したりするのであるが、よく考えると、そのような現象は、組織の現実の一面を映し出しているように思えるところである。つまり、組織マネジメントに関して、何かハッとさせられる、大事なことを思い出させてくれる、考えさせられるような機会を提供するのである。Fioretti & LomiによるNetLogoを用いたゴミ箱モデルのシミュレーションには、数多くのパラメータ設定が可能となっており、それらを操作しながら結果を見るという実験が可能である。Fioretti & Lomiによる再現は、コーエンらのオリジナルなモデルの結果の確認に加え、モデルの追加的な解釈も行っている。以下のような結果とその解釈が興味深いと言えよう。

 

まず、どのような条件下においても、組織における問題の解決とは関係のない、形式的な決定や、問題を見逃した形での意思決定が非常に頻繁に起こるということで、それに比して、実質的な問題を解決するような意思決定はとても少ないということである。これはそもそもモデルの構造を理解すればある意味当たり前のことだと言えるのだが、現実の組織に照らし合わせて考えても、組織の運営において形式的に何かを決めることが日常で頻繁に行われていることと対応していることがわかる。これは、組織というものを維持することにおいて、そのような形式的決定が必要不可欠であるということも示唆している。例えば、組織の本質はルーチン(繰り返し)にあるとも言えるので、ルーチン的な決定を繰り返すこと自体が、組織という実体の維持を意味しているといえる。

 

次に、かなり「変な」結果に見えるのが、組織の階層を考えた場合に、上位の階層に行くほど、形式的な意思決定の相対的な度合いが多く、下位の階層において、実質的な問題解決を導く意思決定が相対的に多いことがわかったということである。これは、現実の組織においても、上位の階層のメンバーほど、形式的な場に出て形式的な決定に参加することが多いことを映していると解釈可能である。例えば、会議に出てメインの役割は挨拶だけであとは頷いているだけとか、そもそも儀式やセレモニー的な行事に顔を出さねばならないこと多いとか、上位階層の人々ほど、実質的な問題解決のために使うべき時間が少なくなりがちであることも映し出しているように思える。

 

さらに変に思える結果として、上位ほど優秀なメンバーたちからなっている「まっとうな組織」よりも、上位よりも下位に優秀なメンバーが多いといった組織の原理と逆行している「ダメな組織」の方が、問題解決を効果的に行うことができそうだという結果である。これは上記の結果とも関連しており、組織の下の階層ほど、実質的な問題と遭遇し、それを解決する機会が相対的に多いのだから、そこに優秀なメンバーが集まっている組織の方が、実質的な問題解決を効果的に行える可能性が高いことを示している。

 

ただし注意すべきなのは、だからといって組織の上位にダメな人間ばかりいても良いということではないだろうということである。問題解決とは関係のない形式的なイベントへの参加やそこでの形式的な意思決定も、組織を維持することにとって重要なのだから、そのような行為を正当化できるようなメンバーが上位に来るべきだということも言えるのである。別の意味での「優秀さ」を考慮すべきだという言い方もできよう。また、皮肉も含めていうならば、日本的な「みこし経営」が効果的であった理由がコンピュータシミュレーションで明らかになってしまったとも言えるかもしれない。つまり、現場には優秀な人材が集まっており、組織の上位階層では「お飾り」としてのトップ層がみこしに担がれているような組織形態は、意外にも理にかなっていたと言えるかもしれないのである。

 

そのほか、オリジナルなゴミ箱モデルでも指摘されていたとおり、組織内において、問題をやり過ごしたり先送りしたりする行為、そしてFioretti & Lomiのモデルで追加された、問題を他者に押し付けるような行為は、それ自体が自己中心的で組織に忠実でなく非真面目な行為と言えるのだが、そういった各メンバーの自己中心的な行為が、集合された組織全体で見るならば、組織が問題を適切に対処して解決を図るためのリソースの蓄積や利用に役立っているという解釈である。エージェントベースモデル上では、やり過ごし、先送り、押しつけが起こるからこそ、解決されない問題が組織内をグルグルと駆け回り、その結果、適切に解決されるようなメンバー、選択機会、解と巡り合うことが可能になっていると解釈できる。

 

もし、これに反して、組織内のみんなが目先の問題に、それがたとえ難しいものであろうと取り組んでしまうのであれば、つまり、やり過ごし、先送り、押しつけといった非真面目な行為が起こらないような状況では、解けない難度の問題を能力のないメンバーが無闇に時間を浪費して取り組んでしまうことで問題が適切な場所に辿り着く時間を伸ばしてしまい、組織全体としての問題解決の効果性を低めてしまう。つまり、そのような「真面目すぎる組織」は、組織として本当に大事な問題に取り組む時間やリソースを減少させてしまい、かえって組織の効果性を弱めることになりかねないことを示唆しているのである。

 

つまり、ゴミ箱モデルのシミュレーション結果から導き出される結論の1つが、組織のメンバーがある程度自己中心的であることは必ずしも悪いことではなく、市場が参加者の自己利益を最大化することに注力することが市場全体として効果的に機能することと類似する特徴が組織にも存在しているということである。市場原理も、ゴミ箱モデルが想定する組織も、個々のアクター、エージェントの活動の特徴の総和がそのまま市場や組織の特徴に反映されるのではなく、エージェントの相互作用から、市場や組織が全体として固有の特徴を発現させることが分かる。組織に関していうならば、参加メンバーの自己中心的な動きが一見すると組織の利益に反する行動に見えても、集合的に眺めれば、組織のパフォーマンスにある程度貢献するような形となっており、逆に、参加メンバーが常に組織に対して献身的に振る舞うという一見望ましい行為は、集合的に眺めると必ずしも組織パフォーマンスを最大化させるわけではないということが言えるのである。

 

そもそもエージェントベースモデルやそれを用いたコンピュータ・シミュレーションは、限られた種類のエージェントと単純化されたルールに基づいて動かしているに過ぎないのだから、それが現実の組織の特徴を余すことなく示していると考えるのは間違っている。しかし、限られた条件でのみ動くようなモデルであっても、そこから得られる、しばしば「意外な」「予想外の」結果が、組織が有している本質的な側面のどこかを鋭く切り取って私たちに示してくれている可能性が高いと考えられるのである。だからこそ、コンピュータ・シミュレーションから生まれた「ゴミ箱」モデルがこれほどまでに知名度が高いのだと言えるのだろう。

文献

Fioretti, G., & Lomi, A. (2010). Passing the buck in the garbage can model of organizational choice. Computational and Mathematical Organization Theory, 16(2), 113-143.

 

 

固定効果と変量効果の直感的理解

経営学や組織行動論を始め、近年の社会科学では、デジタル化の影響もあって大量のデータがとりやすくなってきた。さらに、1人から複数時点でのデータを取得することも昔よりも容易になってきた。そこで、同じ変数を個人とか企業(個体)から時間をおいて何度も取得したデータを分析することが増えてきた。このようなデータは、縦断データとかパネルデータと呼ばれ、より精緻な分析が可能となる。縦断データやパネルデータには、個体間の変動と、個体内での変動(時間的変動など)が混ざっているので、この種のデータを分析する際には、それらをごっちゃにしてしまう単純な重回帰分析のような方法では適切なパラメータ推定ができないため、混合モデルやマルチレベル分析などより高度な統計手法が使われる。

 

このような縦断データもしくはパネルデータの統計分析で頻出する用語が「固定効果」と「変量効果(ランダム効果)」である。この用語は極めて分かりにくく、さらに悪いことに、心理学などの一般的な社会科学と、計量経済学ではこれらの用語が全く違う意味で使われていると思われる。以下のサイトでもその違いが解説されている。

固定効果とランダム効果:統計学と計量経済学での定義 - データ分析メモと北欧生活

そこで今回は、この「固定効果」と「変量効果」を、心理学などの社会科学一般と計量経済学においてどのような意味で使われておりどう違うのかを直感的に理解できるような説明を試みる。心理学などの社会科学一般で用いられている固定効果、変量効果の理解は、清水(2014)を参考にし、計量経済学で用いられている固定効果、変量効果の理解は、西山ほか(2019)を参考にする。この2つの著作を比べるだけでも、固定効果と変量効果が全く違う意味で使われていることが分かる。

 

まず、固定効果と変量効果が分かりにくい理由は、そもそも「固定」とは何が固定されているのか、「変量(ランダム)」とは、何の量が変化するのか(何がランダムなのか)が直観的に分かりにくいところにある。以下において、XがYに影響を与えるという単純な因果関係を考える。例えば、Xを新型コロナワクチン接種、Yを副反応による発熱としよう。

 

まず、社会科学一般では、固定と変量(ランダム)を、次のような発想で使うことが多いことを理解しておこう。例えば、日本人の成人男性の身長を考えるときに、その身長には、すべての日本人成人男性に共通する(固定的な)身長+人によってランダムにばらつく要素(変量)で決定されると考える。つまり、固定的な部分が170センチ(平均身長)であり、それよりもたまたま小さくなった人、たまたま大きくなった人というランダム成分が加わって、一人一人の身長が決定されるというわけである。身長180センチの人の場合は、固定効果(すべての日本人は成人になれば170センチになる)よりも、なんらかの理由で10センチほど上振れした男性ということである。

 

もちろん、180センチになる人、160センチにとどまる人には何らかの原因があるはずだが、統計的に見てその原因にあまり関心がないのであるならば、分布としては固定部分(170センチ)を中心とする正規分布となり、個体はその中のどこかにいる、すなわちランダムに高身長の人、低身長の人が分布していると単純に解釈する。

 

上記のことを理解したうえで本題に戻ろう。XがYに影響を与えるという単純な因果関係、例えばXを新型コロナワクチン接種、Yを副反応による発熱としたときに、心理学などの社会科学一般でいうところの「固定効果」とは、すべての人(個体)に共通して(固定的に)生じるXの効果、すなわち定数(固定値)として示されるXの係数を意味する。例えば、新型コロナワクチンを接種したら翌日に2度発熱する(38度の熱が出る)というのがXの固定効果である。ただし、人によっては、まったく発熱しない人、逆に40度近くまで高熱を出すひとなどさまざまであり、個別にはなんらかの理由があるだろうが、統計的に見ると、これらの人がランダムに分布している。この部分を「変量(ランダム)効果」と呼ぶ。であるから、個人にとって、新型ワクチン接種が発熱をもたらす効果は、固定効果(2度)+変量効果(人によってマイナスであったりプラスであったりする)ということになるのである。

 

以上をまとめると、心理学など社会科学一般で縦断的データなどを分析するときに用いられる「固定効果」は、「すべての個体に共通している」がゆえに「固定値で表現できる」効果ということになる。当然のことながら、個体によってXの効果は異なるはずなのだが、一見ばらばらに見える効果でも、そこには必ず固定的な効果が「隠れている」と考えれば、個々のXの効果の平均値をとれば、上振れしたり下振れしたりするランダム成分(変量効果)が相殺されて、その固定値(固定効果)を取り出すことが可能になるという発想にもつながり、それが実際の混合モデルやマルチモデルの基礎となっているのである。

 

さて、計量経済学のパネルデータにおける「固定効果」と「変量効果」を考える際には、上記の説明はいったん忘れ去ったほうがよい。でないと混乱することになる。なぜならば、上記の説明でいうところのXの固定効果は、計量経済学では固定効果とは言わないからである。計量経済学でいうところの固定効果が意味するのは、まったくの別物である。経済学は独特な思考のクセを持っているので、経済学的にものを考えるときにはいったん常識的な発想を取り除いたほうがよいのかもしれない。

 

では、計量経済学でいうところの「固定効果」と「変量(ランダム)効果」とは何を意味するのであろうか。まず「固定効果」を直感的にいえば、それは、それぞれの個体が持っている固有の特徴で、それがXに影響を与えていると考えられるという意味である。とりわけ重要なのは、計量経済学の多くはすでに存在するマクロ的なデータを分析対象とすることが多く、リサーチクエスチョンにもとづいてゼロからリサーチデザインを設計してデータ収集を始めることは少ないということである。であるから、個体が持っているなんらかの特徴がXに影響を与えると想定しても、そのような要素が分析対象となるデータには測定変数として含まれていないことが多いのである。Xを新型ワクチン接種、Yを発熱としたときに、個人が住んでいる地域の接種会場の数が、接種するか否かに影響しているかもしれない。しかし、計量経済学者が入手したデータにはその情報が欠落している(居住地のデータを収集していない)。年齢も、接種するか否かに影響を与えるいるかもしれない。若い人ほど接種率が低いかもしれない。しかし年齢データもない。存在するのはXとYの数値のみ。こういう状況を想定してもらえればよい。

 

計量経済学でいうところの固定効果は、縦断的データすなわちパネルデータを想定したときに、それぞれの個体が持っている測定されていない固有の特徴で、しかもそれは時間によって変化しないと想定する。例えば、個人の居住地の病院数は、もし毎回測定していたとしたら、引っ越しなどの事情を除けば、毎回、ほぼ同じ値である。しかし、計量経済学者が入手したデータにはその情報が含まれていないと仮定しよう。しかし、接種会場の数が接種するか否かになんらかの影響を及ぼしているかもしれないと考える場合、接種会場数(固定効果)とX(接種するか否か)とが相関していることが想定される。接種会場数が少ないほど、接種しないケースが多いと想定してみよう。

 

上記のようなケースで、XがYに与える影響を推定しても、すなわち、接種後にどれくらい発熱するかの効果を推定しても、それは人間一般に当てはまる適切な推定値ではない。それは高齢者のみに当てはまる効果なのかもしれないし、都市部の人々のみに当てはまる効果なのかもしれない。すなわち、推定された効果には、測定されていない個体の要因が混在した、バイアスのかかった推定なのである。

 

よって、計量経済学者が関心をもっているのは、データには測定値として含まれていないがXの値に影響を与えると思われる個体が固有にもっている要素(固定効果)をいかに取り除いて、適切なXの効果を推定するかということなのである。固定効果を含んだままで推定したXの効果というのは、その効果に個体固有の要素が混ざってしまっているので、それが何を意味しているのかが不明になってしまうのである。この発想が、パネルデータを分析するさいの統計手法の基礎となっているのである。

 

では、計量経済学でいうところの「変量(ランダム)効果」とは何か。こちらは直感的にいうと、計量経済学でいうところの固定効果が、分析から取り除かないと間違った推定をしてしまうという「悪性」の要因を意味するとするならば、分析から取り除く必要のない、よって放置しておいても問題のない「良性」の要因だと考えることが可能である。つまり、固定効果と同様に、データには含まれていないが個体が固有に持っている時間によって変化しない要素なのだが、その要素がXとは相関していない場合である。つまり、「変量(ランダム)効果」の変量(ランダム)とは、Xと無関係である(ランダムである)という意味なのである。ただ、Xとは無関係でも、Yに独立的に関係している可能性があるので、分析ではそれを考慮した推定が必要になることがある。

 

新型コロナワクチンと発熱のケースでいうならば、個人の年齢と身長を両方とも測定していないデータしか入手できなかったとした場合に、もしかしたら、そのデータにおいて、ワクチン接種した人はほとんどが高齢者で、ワクチン接種していない人はほとんどが若者かもしれない。しかし年齢データがないのでそれが本当かどうかは分からない。しかし、もし、単純な回帰分析などで、ワクチン接種と発熱の関係を分析したらどうであろうか。それが間違った結論を導くことは容易に理解できるであろう。若者がワクチン接種をしたらどうなるのかがまったく不明だからだ。この場合、年齢は「固定効果」であるので、固定効果を取り除かないかぎり適切な結論は導けない。つまり、結論をゆがめる悪性の効果である。しかし、この固定効果は、同じ個体から複数のデータを取得しているというパネルデータの特徴を利用すれば取り除くことができるというところがミソである。

 

一方、身長を考えると、身長の高低とワクチン接種の有無は無関係だと思われる。ワクチン接種をした人の中には、高身長の人も低身長の人も一定数存在しているだろうし、同じく、ワクチン接種をしなかった人の中にも、高身長の人も低身長の人も一定数存在しているだろう。つまり、身長に関していえば、ランダム化された実験をしているのに等しい、すなわち、接種群と非摂取群とで身長についてはランダム配分が実現していることを意味する。であるから、身長が、Xの効果を推定する際に悪さをすることはない。すなわち「良性」の要素ということになる。この場合、身長は「変量(ランダム)効果」だといえる。

 

そろそろまとめに入ろう。心理学などの社会科学一般でいうところの「固定効果」「変量(ランダム)効果」は、計量経済学で用いる「固定効果」「変量(ランダム)効果」とは違うということを強調したわけだが、どう違うのかを直感的にまとめてみる。

 

まず、心理学などの社会科学一般でいうところの「固定効果」は、XがYに与える効果のうち、すべての個体に共通して現れる定数(固定値)で表すことができる効果である。「変量(ランダム)効果」は、固定効果よりも高かったり、低かったりと、統計的に見ると個体によってランダムに変動している効果である。

 

そして、計量経済学でいうところの「固定効果」は、XがYに与える効果を検証する際ランダム化実験が理想的な方法だ想定したときに、実際に用いるデータでは、「個体の固定的な要素」がXと相関してしまっているがゆえにランダム化が失敗しているケースを指す。これは分析で誤った結論につながる「悪性」の効果だが、パネルデータであれば取り除けると考える。一方、「変量(ランダム)効果」は、それに限っていえば「ランダム化」が成功しているケースを指す。ランダム化が成功しているから、その効果を分析の際に取り除く必要がないということである。以上、直感的な理解なので厳密には正しくない点があるかもしれないが、大まかなイメージはつかんでいただけると思う。

文献

清水裕士 2014「個人と集団のマルチレベル分析」ナカニシヤ出版

西山慶彦・新谷元嗣・川口大司・奥井亮 2019「計量経済学」 (New Liberal Arts Selection) 有斐閣

固定効果とランダム効果:統計学と計量経済学での定義 - データ分析メモと北欧生活

エージェントベースモデルで学ぶ「鳥の群れ型リーダーシップ」

組織は精密機械のごとく厳密に設計されて運用されるという側面もないわけではないが、個々のメンバーがある程度の自由度をもって活動する中でも、同僚と何らかの相互作用を行うことで、組織全体として秩序あるパターンが生まれてくる(創発する)側面を強く持っている。しかも、そのようなパターンは全く同じものが繰り返されることはなく、常に変化しており、言い方を変えれば常に新しいパターンが創出されるとか組織全体が進化していくともいえる。そして、リーダーは、このような、個々のメンバーの振る舞いから全体としてのパターンが創発するという組織の特徴を最大限に生かしてイノベーションや組織の活性化、パフォーマンスの向上につなげるようなリーダーシップが求められる。

 

上記のようなリーダーシップの本質を理解するのに役立つのが、エージェントベースモデリングというコンピュータシミュレーションで、この手のシミュレーションでもっともシンプルかつ有名なものが、鳥の群れのシミュレーションである。鳥の群れは、群れ全体を統括するリーダーが計画を立てて群れ全体を動かしているわけではない。1羽1羽の鳥が、ごく少数のルールに沿って行動するだけであるにも関わらず、全体としては「群れ」という組織現象が創発されるのである。そして、このコンピューターシミュレーションは、ごく少数、具体的には3つのルールを設定して各エージェント(鳥)を動かすだけで、自然現象で観察される鳥の群れと非常にそっくりな現象を生み出すことができることが驚きをもたらす。

 

今回は、この鳥の群れのシミュレーションから得られる洞察に基づいたリーダーシップスタイルとしてWill (2016)が提唱する「鳥の群れ型リーダーシップ(Flock leadership)」について紹介する。実際のコンピュータ・シミュレーションは、Netlogoというプラットフォームで実行可能なものであり、以下のサイトからウェブブラウザー上でも実行が可能である。

NetLogo Web

そもそも鳥の群れのシミュレーションでは、個々のエージェント(鳥)の動きをプログラミングしているだけで、リーダーの存在を想定していない。それなのに、リーダーシップについて何が学べるのだろうかと思うかもしれない。しかし、リーダーの役割は、全体を計画したりコントロールすることではなく、個々のメンバーに自律性を持たせながらも、必要最低限のルールを定めてそれに従ってもらうことによって組織全体を動かしていくものであるという視点を加えるならば、このシミュレーションから、「リーダーはどのような特徴をもったルールを組織メンバーに対して設定すると、よりクリエイティブな組織になれるのか、より活性化された組織になれるのか、あるいはよりまとまった、秩序だった組織になれるのか」といった問いを検討することができるのである。

 

例えば、スターバックスでは、接客のマニュアルがなく、接客は店員のアドリブに任されているといわれている。しかし、だからといって自由気まま、傍若無人に振舞いなさいといっているわけではなく、スターバックスとして守るべき「ミッション」や「行動規範」を徹底している。これが、鳥の群れでいうところの少数のルールに類似しているといえるし、特定のミッションや行動規範を徹底することはリーダーの役割である。

 

さて、実際の鳥の群れのシミュレーションでは、鳥の振る舞いかた(他の鳥との相互作用のあり方)を変化させるルールのパラメータが5つある。当然、オリジナルな鳥の群れのシミュレーションでは、言葉のとおり、鳥など動物の物理的な「群れ」の特徴を理解する目的でつくられたものなのであるが、Willは、これを、組織と組織で働くメンバー間の相互作用が、特定の組織の特徴や行動を誘発するという視点で解釈が可能であると主張する。であるから、シミュレーションで得られる動きを、多数のメンバーからなる組織とかチームになぞらえて考えることができるが、そこでは必ずしも「物理的な」メンバーや組織を想定する必要はない。シミュレーションで観察される「組織」の動きは、メンバーの集合的な思考であったり態度であったり、もちろん行動であると解釈可能である。

 

では具体的に、Willが提唱する「鳥の群れ型リーダーシップ」で、リーダーが組織のメンバーに設定するルールの5つのパラメータにどのようなものか説明しよう。

1. Vision(相互作用をおこなう同僚の範囲)

シミュレーション上は、エージェントが他のエージェントを認識できる距離を示しており、visionの値を高めると、エージェントは遠くの他のエージェントを認識し、ルールに従ってそれらのエージェントと相互作用する。鳥の群れ型リーダーシップでは、近くの同僚のみとルールに従った相互作用をするか、遠くの同僚とも同じようにルールに従って相互作用するかの違いを度合いで示すものである。相互作用をおこなう同僚の範囲が狭いということは、組織内において、身近な同僚以外との交流があまりないような組織を意味しており、相互作用をおこなう同僚の範囲が広いということは、逆に、組織内において他の部署など遠くの同僚とも一定の頻度で交流を行うような組織を意味している。

2. Minimum-separation(同調圧力への抵抗)

シミュレーション上は、エージェントが認識可能な他のエージェントとどの程度まで接近できるかどうかの度合いを示しており、minimum-separationの値よりも小さな値の範囲内に他のエージェントが接近してきた時は、そこから遠ざかるまで相手を無視する。鳥の群れ型リーダーシップでは、エージェントの同調圧力への抵抗の度合いを示している。つまり、minimum-separationの値が大きいと、他の同僚が適度に離れている限り、すなわちチームがあまり凝集して同調していない時に限って同調行動を行うが、その同僚が接近してくる、すなわちグループ全体が凝集する方向に進んでいくいる時には、同調を拒否するあるいは無視するというルールを示している。

3. Max-align-turn(コミュニケーションルール)

シミュレーション上は、エージェントが認識可能な他のエージェントが向かっている方向の平均に自分の向かう先を合わせる度合いを示している。max-align-turnの値が大きいと、群れ全体が同じ方向に進みやすいことを示している。鳥の群れ型リーダーシップでは、メンバーが同僚と進むべき方向性についてコミュニケーションを取り、環境の認識や行動すべきことについて共有することを奨励する度合いを示している。チーム全体で言えば、メンバーが認識可能な同僚とうまくコミュニケーションを取る結果、状況把握などがメンバー間に共有され、メンバーが同じように状況を認識し、同じ方向を向き、同じ方向にむかって行動する度合いを示している。ただし、メンバー同士が近づいていくことで凝集性を高めていく(下記のコンセンサス規範)とは異なる次元である。

4. Max-cohere-turn(コンセンサス規範)

シミュレーション上は、エージェントが認識可能な他のエージェントが位置している中心的な位置に向かって進む度合いを示している。max-cohere-turnの値が大きければ、エージェントは、認識可能な他のエージェントの現在位置の中心的な位置を認識し、そちらに向かって自分自身を動かすことを示している。鳥の群れ型リーダーシップでは、メンバーが、他のメンバーが平均的に理解しているような内容に自分自身も従っていく度合いを示しており、チーム全体としてはメンバーのコンセンサスが取れている状態を示している。

5. Max-separate-turn(ユニーク性規範)

シミュレーション上は、エージェントが自分に最も近い他のエージェントと異なる方向をむく度合いを示している。max-separate-turnの値が高いと、エージェントが一番近い他のエージェントが向いている方向と真逆に近い方向に自分自身を方向転換することを示している。鳥の群れ型リーダーシップでは、チームのメンバーが、周りの環境を認識し、行動するにあたって、自分自身のユニークさを維持する(自分に近い同僚とは異なる考え方や行動をする)ことを奨励する度合いを示している。そうなると、組織内で多様な考え方や見方が増大することが考えられる。

 

鳥の群れ型リーダーシップでは、リーダーは、上記の5つのパラメータの度合いを組み合わせることで、さまざまな特徴をもった組織を生み出すことにつながることを示唆する。コンピューターシミュレーションの利点は、実際に手を動かしていろんなパラメータを変えて、組織の振る舞いがどうなるかを確かめることを何度も繰り返すことができるところである。実際の組織ではそうはいかないが、バーチャルなのでそのような実験が可能なのである。例えば、メンバーにユニークであれと過度に強調しつつ、かつ、コンセンサスを強く形成するようなルール設定をする場合や、組織内の多くのメンバーと相互作用を行い、同調圧力にも従うようなルール設定をする場合とでは、組織の振る舞いは異なるだろう。でも、メンバー間の相互作用から、どのような組織の特徴が立ち現れてくるのかを頭の中だけで想像するのは難しく、実際にシミュレーションというかたちで動かしてみないと分からない面もある。

 

よって、実際に鳥の群れのシミュレーションのサイトを訪れて、いろいろと上記のパラメータの値を変えながら組織の振る舞いを観察してみることによって、リーダーシップのあり方に関する様々な洞察が得られるであろう。

文献

Will, T. E. (2016). Flock leadership: Understanding and influencing emergent collective behavior. The Leadership Quarterly, 27(2), 261-279.

 

 

生物は流れている

更科(2019)は、生物の体は物質の流れだという。例えば、自動車と生物を比べてみるならば、自動車は動かすためにはエネルギーが必要で、エネルギーが流れているといえるが、自動車という物質は流れていない。一方、生物の場合は、エネルギーだけでなく物質も流れていると更科はいう。つまり、生物の身体には、いつも物質が流れ込み、そして流れ出ていくというのである。であるから、生物の体の多くの部分は、いつも入れ替わっている。

 

生物では物質が流れているのに、生物は存在し続けるし、全体の形はあまり変わらない。更科によれば、このように流れの中で形を一定に保つ構造を、散逸構造といい、プリゴジンが提唱した概念である。散逸構造をしているものには必ずエネルギーや物質の流れがあるといい、流れがあるのに定常状態であるというのが散逸構造の特徴だという。

 

また更科は、生物は平衡状態ではないという。ミクロな世界では、平衡状態でも動的な状態ではある。例えば、水の入ったグラスは静的に見えても、分子レベルで見れば、分子が活発に動き回っている状態である。しかし、空気に飛び出す液体中の水分子と、液体に飛び込む空気中の水分子の数が同じなので、動的であっても平衡状態だと更科は説明する。つまり、平衡状態は動的な状態だが、そこには流れがないと更科はいうのである。

 

さらに、平衡状態の場合はエネルギーの流れもないという。平衡状態は見かけ上は何も起こらないので「死の状態」とも呼ばれることもあるのに対し、明らかに生物は平衡状態ではない。それはつまり、生物には流れがあるということであり、エネルギーや物質が流入して生物の体を作り、そして流出していくのだと更科はいう。つまり生物は、生きている間はほとんど形が変わらないにも関わらず、非平衡状態だというのである。

 

更科によれば、生物以外で散逸構造をしているものはたくさんある。例えば、コンロの炎はエネルギーの流れがある非平衡状態なのに、定常状態としての炎の形が保たれているので散逸構造である。海の潮も変わり目の渦や台風もそうである。散逸構造をしているものの中でも、生物は奇跡的に複雑で、奇跡的に長い期間存在し続けてきている。それは偶然だったのかも知れず、散逸構造をしているものの中で一番複雑で長生きなのが生物と呼ばれるようになっただけかもしれないと更科は考察している。

文献

更科功 2019「若い読者に贈る美しい生物学講義 感動する生命のはなし」ダイヤモンド社

動的平衡という「流れ」

福岡(2017)は、分子生物学の観点から、生命というのを分子レベルでとらえた場合に、デカルト的な機械論生命観とはまったく異なる様相を示していることを説明している。動的平衡という流れとしてとらえるそのような生命観とは、どのような姿なのかについて、以下のように論じている。

 

「生命は行く川のごとく流れの中にあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないため」と福岡はいう。そして、分子の流れが、「流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っている」という。個体は、感覚としては外界と隔てられた実態として存在するように思えるが、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子の緩い「淀み」でしかないのである。

 

福岡によれば、生命が、分子レベルにおいてはなおさら、循環的でサステナブルなシステムであることを最初に見たのは科学者シェーンハイマーである。私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという発見であったのである。つまり、生命を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取された分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身がこうして常に作り変えられ、更新され続けている。

 

可変的でサステナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるのである。要するに、環境は常に私たちの身体を通り抜け、あるいは身体自体も通り過ぎつつあり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。

 

生命が「流れ」であり、私たちの身体がその「流れの淀み」であるなら、環境は生命を取り巻いているのではなく、生命は環境の一部、あるいは環境そのものであるとさえ福岡はいうのである。機械論的な自然観は線形的であるのに対し、循環する流れは非線形的である。その1つの象徴が、渦巻である。自然界は渦巻の意匠に溢れている。渦巻は、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。私たちが線形性から非線形性に回帰し、「流れ」の中に回帰していく存在であることを自覚せざるにはいられないと福岡はいうのである。

 

福岡の動的平衡としての流れを理解する限りにおいては、かろうじて物質すなわち「モノ」として理解できる分子の動きというレベルで見た場合、生命は、物質的基盤よりも、分子の流れによって生じている「コト」としてとらえられる。さらに思考を突き詰めて、分子よりもさらにミクロな素粒子の世界から眺めるならば、循環している分子でさえ、物質という「モノ」としてとらえることが困難となり、波と粒子の相矛盾する性質を有する何ものかの関係性という「コト」としてとらえるしかなくなる。そうなると、生命というものは「コト」としてとらえるのが適切だということになるのだろう。

文献

福岡伸一 2017「新版 動的平衡: 生命はなぜそこに宿るのか」(小学館新書)