哲学・倫理の書として読む「易経」

松枝・竹内(1996)によれば、易経周易)は、最初は運勢を判断する言葉を集めただけのものであったが、後になって言葉の注釈や周易全体を統一的に解釈するための理論が展開され、次第に哲学書としての体裁を整えるようになった。これらの注釈や易理論を編纂したものを易伝(十翼)といい、後の周易はこれら十翼を含めたものを指すようになった。十翼によって統一的な意味づけを与えられた周易は、占いの原典としての側面のほかに、哲学・倫理を説く経典としての側面をあわせ持つようになったというのである。

 

ただ、松枝・竹内は、哲学・倫理の書としての易経も、読む者の能動的な思索をまってはじめて意味を持つという。なぜなら、易経の言葉は極めて簡潔であり、しかも断片的であるため、一見しただけでは何のことかわからないからである。それに意味を付与して無限に広げていく作業は読者にゆだねられているからこそ、易経は読者の積極的参加を不可欠の要素としているというわけである。つまり、易経は神聖な経典でもなければ神秘を説く奇書でもなく、読む人ひとりひとりに自分の頭で考えることを教える書物だと松枝・竹内はいう。易経の言葉は1つのヒントであり、人はそのヒントから自由に連想を働かせて、自分の持っている問題を考えなければならないというのである。

 

易経は、世界の森羅万象は絶え間なく変化(変易)するが、そこには一定不変(不易)の法則が貫いていると説く。その法則は、陰と陽との対立・転化という平易簡明(易簡)な形式で表されると松枝・竹内は解説する。まず、易の思想の核心は、陽と陰(剛と柔、乾と坤)の対立という陰陽二元論である。あらゆる事物には必ず対になるものがあって、それと対立することによって統一した世界を作っているという。すべての変化はこの陰陽の対立から生まれるのである。そして、陰(柔・弱・低・暗・受動的・女性的なるもの)と陽(剛・強・高・明・能動的・男性的なるもの)の両者は固定的・絶対的なものではなく、常に相互に転化する、すなわち陰は陽に変じ、陽は陰に変じるという。易における変化は、この陰陽の消長交替が基本であるとする。

 

松枝・竹内によれば、陰陽の転化によって「物、極まれば必ず反す」というようにすべてが循環しながら変化を作り出しているといえるが、変化は循環だけではなく、陰陽が相互に作用することによって新しいものを生み発展させる。例えば、天はエネルギーを放出し、地はそれを受け入れて、万物が生み育てられる。つまり、陰陽は、互いに消長することによって循環し、互いに働きかけることによって新しい発展を生む。宇宙万物はこの法則のもとに不断に変化し発展するというのである。これが易経における弁証法的宇宙認識だと松枝・竹内はいう。

 

このような宇宙の変化の法則は、もちろん人間をも支配する。しかし人間は、宇宙の変化に対してただ受動的であるものではないと松枝・竹内は説く。人は宇宙の根本原理を体得することによって、天地と並ぶ地位を獲得するというように、人間がその法則をわがものにすることによって、絶えざる変化の中にあってみずからの運命を切り開いていく。また、易経で説かれる実践倫理の基本は「時中」だという。変化は時の流れとともにあるが、時々刻々の変化に対して、その本質を見極め、それに沿って行動することが「時中」なのである。それは決して時勢のままに流れることではなく、逆に、本質をつかむことによって眼前の事象に惑わされないとすることなのだという。

 

松枝・竹内の解説によれば、宇宙の循環的変化は人間社会にも当てはめられる。頂点に達したものはやがて衰える。権勢をふるうものの破滅は近い。別の言い方をすれば、支配するものは変化を欲しないわけだから、易経のように変化を基本におく思想は、常に、抑圧のもとにあってその抑圧から解放されようとする者の思想だというのである。

文献

松枝茂夫・竹内好(1996)「易経」 (中国の思想) 徳間書店

易で兆しを読む方法

河村(2008)は、易は「機」の哲学だという。易の別名を「変易」ということとも関連している。万物は、一刻も休まずに生成し化成し常時変化してやまない。こうした止どまるを知らず常に変わり続ける動きを重視するのが易の基本的な姿勢だというのである。具体的には、六十四卦の各爻の変化に注目し、その微妙は変化を<機>とみるのだと河村はいう。機は、きざし、はずみ、きっかけ、しおどきであり、要するに転機であり好機である。機が熟さない限り、いかに力量が備わっていても結果は期待できないが、逆に機運に乗りさえすれば、その力量は倍加するとのことである。

 

易において、機の動きを見るのが、「変爻」である。実際に占って得た卦すなわち「本卦」の6本の各爻のうちいずれかあるいは全体が、陰が陽に、陽が陰に変化した場合に変わった卦を、「本卦」に対して「変卦」あるいは「之卦」と呼び、易はこれを重視すると河村は説明する。易が変卦を重視する理由は、表面に表れたものよりその内側が大切であると考えるからだという。つまり、華やかな目先の動きにはとらわれず、ひたすら背後に隠された微妙な動きに目を配れというわけである。これが、易が機の哲学と呼ばれるゆえんである。

 

河村によると、易にはさまざまな変卦があるが、「互卦」「錯卦」「綜卦」が、将来の含みを察知する手段として実践ではよく用いられる。互卦は、卦の下から二、三、四爻を下段の内卦とし、三、四、五爻を上段の外卦としてみるものである。錯卦は、爻の位置は変えずに、そべての陰陽を転換したものである。綜卦は、6本の爻の上下を180度逆転したものである。

 

易で本格的に占うというのは、少なくとも1つの卦が出ると、本卦に基づいて変卦を知り、またそこに含まれる互卦の暗示を加味し、錯・綜卦の関連性を併せて推察し、最後に総合的に占断を下すのだと河村は説く。つまり、易が強調するのは、ものごとの上っ面や虚飾にとらわれず、内側に潜む真実に光をあて、それを直視することなのだというのである。往々にして真実はヴェールの背後に隠されている。一見とるに足らない現象も、実際そこには無数の要因がからまっているのと同様に、1個の卦の中にも、そこには無数の意味が込められているからこそ、互卦・錯卦・綜卦などの変卦(之卦)を易では重視するのだという。 

文献

河村真光 2008「易経読本―入門と実践」光村推古書院

 

易の構成

川村(2008)によれば、易は、この世の森羅万象は8つの要素で成り立つとし、それぞれに自然や人間関係、あるいはその性質・性状などをあてはめ、それで私たちの周りに起こるあらゆる現象を解明し説明しようと試みたものである。その核となるのが、陰陽の考えかたである。由来は、日光に向かっている側を「陽」、日光に背を向けている側を「陰」ととらえたものである。

 

易経では、陰と陽は互いに対立しながらも、互いに相手を必要とし、ある面ではお互いが相手側の存在によりかかった共存の関係であると川村は説く。つまり、一方が欠ければ他方も成立しない相関関係にあるわけである。古代の人々は、明らかに2つの相反する側面が互いに対立しながら、また相互に依存し、絶えず変化していることに気づき、対立、依存、消長、転化が自然界の法則でもあることを発見したのだという。

 

中国古代の独創的な哲学理論である陰陽学説では、世界を物質の総合体と捉え、宇宙の一切の事物はその内部に陰陽の対立を含みつつ、発生・発展・変化を繰り返し、すべては陰陽二気の対立と統一の表れだと認識する。なお、具体的事物が陰に属すか、陽に属すかは相対的なものであって、絶対的なものではなく、時間の推移につれ、運用範囲の違いにより、しばしば転化する。西洋で易が「変化の書」とされるゆえんがここにあると川村はいう。

 

易の基本要素としての八卦の成り立ちは以下のように説明される。まず、太極というのは、世界万物の生ずる根源で、宇宙の本体で、要するに絶対無二の宇宙の根源である。その太極から陰と陽の2大<気>が派生する。陽気は上昇して天となり、陰気は下降して地となる。つまり、天と地ができるわけで、これを両儀という。

 

次に、この陰陽の本質をさらに詳しく解明すると、陽にも「陽の陽」と「陽の陰」があり、陰にも「陰の陽」と「陰の陰」がある。これを四象という。「陽の陽」は老陽として夏、 「陰の陽」を老陰として冬とし、「陰の陽」を少陽として春、「陽の陰」を少陰として秋とするならば、四象は時の流れも示す。この四象の上に更に陰陽を加えたものが八卦(乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤)である。

 

八卦には、卦象と卦徳がある。卦象は、<象>すなわちシンボルであり、最も大切なのが自然現象としての「天・沢・火・雷・風・水・山・地」であるが、それぞれの性状は次々と複雑になり多岐に渡ると川村はいう。卦徳は、自然などの卦象とは異なり、卦(本体)のはたらきを示すものである。「健・説・麗・動・入・陥・止・順」である。

 

なお、川村によれば、易の運命感は徹底しており「すべて自分で切り開け」と教える。福は自分で探せというのが中国の運命観で、受け身の宿命観とは対極をなす。なので、易の真髄はあくまでもたくましい健康な楽天主義である。興亡を限りなく繰り返し、何度も落ち込み、その都度這い上がったものだけが勝つというしたたかな自信が背景にある。人生くよくよしたところで始まらないという陽気な明るさが身上だというのである。いったん易に親しめば、この三千年に及ぶ知恵の結晶に、人間を観察し知り尽くしたあげく、ついに到達した達人の眼を感じないわけにはいかないと川村はいうのである。

文献

河村真光 2008「易経読本―入門と実践」光村推古書院

 

易はどのようにして出来上がったのか

黄(2004) は、易占いに用いられる周易というものが、三千年ほど前に中国でどのようにしてできあがってきたのかについて、以下のように説明している。

 

まず、その時代に生まれた中国の人々の意識に強烈な印象を与えたものは、「天」と「地」であったはずである。つまり、高く青く澄み切っている大空、自分が足で踏みしめている大地は、あらゆる人間にとって、人間を生み育ててくれる2つの大きな力を思われたというわけである。

 

次に、彼らが自分たちの周囲を見回したとき、まず目に映ったのは「山」だっただろう。その高さに希望を感じ、その険しさに困難を感じたことは疑いがないと黄はいう。そして、高い空には雲も浮かび、日も照り、「風」も吹き、「雷」もとどろく。澄み切った空も、ときには暗黒と化して、激しい雨を降らせる。その「水」が川に入り、「沢」の流れとなり、ときには湖沼として集結し、いずれは海に流れ込む。風が激しく吹きすさべば、木々の摩擦によって山火事も起こる。ときには落雷によって森林が「火」で燃え上がることもある。

 

つまり、黄によれば、原始人にとって、このような自然の働きが宇宙の神秘であり、自然の法則だと思われたことは疑う余地がないということである。よって、「天・沢・火・雷・風・水・山・地」という8つの要素が、自然と人生を支配するものだと、古代の中国人が考えたのも当然の感情だというわけである。この8つの要素に、しばらくしてから「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」という文字があてられるようになった。つぎに、それぞれの8つの要素に形が象徴として与えられた。それには、陽と陰が記号として使われ、「☰・☱・☲・☳・☴・☵・☶・☷」のように形が決められた。

 

上記のように8つに分けられた自然を小成八卦というが、人生はもっと複雑であるため、8つの要素の2つを上下に組み合わせて六十四の卦がつくられ、それぞれに名前がつけられたと黄は説明する。

文献

黄小娥 2004「黄小娥の易入門」サンマーク出版

統計分析で道具変数(instrumental variable)を用いて内生性(endogeneity)を解決する方法

以前、経営戦略論に代表される経営学の実証分析において、統計モデルに内生性が存在する場合、結論において重大な誤りを犯す危険性を説明した。

経営戦略論で内生性(endogeneity)が大きな問題となるのは何故か

 

そこで重要となるのが、何らかの方法で内生性の影響を取り除くことで適切な結論を導き出すことである。おさらいをすると、内生性とは、重回帰分析において、独立変数(x)と予測誤差(e)とに相関がある場合、独立変数による効果の推定にバイアスが生じてしまう現象を指す。意味的にいうと、外生変数(exogneous variable)が、モデルにおいて因果関係の始点となる変数なのに対し、内生変数(endogeneous variable)は、たとえそれが因果モデルの原因の側にあるとしても、それが他の変数からも影響を受けている(よって始点ではなく、他の変数から見ると終点)ような変数である。実証分析において、このような他の変数が特定できていなかったり測定できていなかったりして、予測誤算の中に紛れこんでいると思われる点が問題をややこしくしている。

 

内生性を取り除いて適切な結論を導くための方法として、今回、直感的な理解を目指すのが、道具変数(instrumental variable)を用いた2段階の最小二乗法である。最初にもっとも直感的な説明をざっくりと言ってしまうと、この方法は、独立変数と予測誤差が相関していることがすべての災いの元になっているのだから、その相関部分を取り除いてしまってクリーンにした「疑似的な独立変数」を作って、それを重回帰分析に入れてあげれば問題は解決する(独立変数と予測誤差が相関しなくなるので、適切な結論を導ける)というものである。「疑似的な」独立変数というところがミソで、これを作り出すために使うのが、道具変数なわけである。

 

つまり、分析の際に、なんとかして最適な道具変数を見つけ出すことができれば、内生性の問題はめでたく解決するというわけなのだが、そもそも道具変数とは何で、どのように見つけだすのかがポイントである。それは、おおまかに2つの条件を満たすような変数を見つけだすということである。1つ目は、その変数が、内生変数である独立変数と強く相関していることで、これが、独立変数と似ている「疑似的な変数を生み出す道具になる」ことに相当する。2つ目は、その変数は、予測誤差と相関していない、すなわち外生変数だということである。2つ目の条件があるからこそ、この変数を使って、予測誤差と相関しない疑似的な独立変数を作り出すことができるというわけである。

 

うまくこの2つの条件を満たす変数が見つかれば、それを道具変数として、2段階の回帰分析を使って内生性の問題の解決に取り組むことになる。それは、以下のようなメカニズムによって行われる。

 

まず、本来の独立変数(内生変数)をいったん従属変数として、あとは本来の重回帰分析と同じ統制変数と、道具変数を予測変数とする重回帰分析を最小二乗法で実施する。これが第一段階の回帰分析である。そうすることで、独立変数の値に近い、モデルの予測値を生み出すことができる。この予測値は、もともとの予測誤差と相関していない外生変数を用いて生み出した値なので、この値を本来の回帰分析に入れても予測誤差と相関することはない。

 

つまり、第二段階の回帰分析において、本来の独立変数に代えて、先ほどの第一段階の重回帰分析で作り出した予測値を用いて、重回帰分析を行うわけである。つまり、もともとの内生変数を、それと似ている外生変数に置き換えたというわけである。この置き換えられた変数を、疑似的な独立変数というならば、その意味は、もともとの内生性を有した独立変数と非常に似ている要素を有していながら、予測誤差と相関する部分のみが取り除かれてクリーンになった変数ということになる。

 

このような方法で第二段階の重回帰分析を行うならば、そこでは予測誤差との相関がなくなり、すなわち内生性の問題が除去され、バイアスのない、適切なかたちでの疑似的な独立変数の効果が推定できるのである。よって、本来の独立変数が従属変数に与える効果について、適切な結論を導き出すことが可能になるというわけである。道具変数というのは、モデルにおいて測定できていないような隠れた変数などによる影響で「汚染された」独立変数から、汚染部分を取り除いてクリーンにした変数を作り出してモデルを検証するための変数だといえるだろう。

 

文献

Bascle, G. (2008). Controlling for endogeneity with instrumental variables in strategic management research. Strategic organization, 6(3), 285-327.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「平均値に差がない」という仮説を検定する方法の直観的理解

基礎的な統計学において必ず学ぶのが「平均値の差の検定」である。これは、2群の平均値に差があるという仮説がデータから指示されるかを検証する方法で、最も基本的な方法は、帰無仮説と対立仮説を立て、t検定によって検証するという方法である。「平均値に差がない」を帰無仮説としてt値を求め、その生起確率が非常に低い場合(例:p < 0.05)に、帰無仮説を棄却し、対立仮説としての「平均値に差がある」という仮説を支持する。この基本的な考え方は、仮説検定のロジックとして、平均値の差のみならず、相関関係や回帰分析などにおいて、変数間に関係性がある、あるいは「効果がある」という仮説を検証する際にも応用される。

 

しかし、たまに「平均値の差がない」という仮説を立てるケースがある。一見すると筋の悪い仮説のように思えるが、テーマによってはまったく的外れということでもない。2つの群の母平均が「等しい」ということを示したいわけである。この基本形を拡張するならば、「変数間に関係がない」「ある要因が他の要因に対して効果がない」といった仮説を検証することにつながる。Stanton (2020)は、いくつかの例を挙げている。例えば、一般的に怒りやすい人ほどストレスを感じやすいが、ある条件下では、起こりやすい性格とストレスとは「関係がなくなる」という仮説である。今回解説するのは、このように、「差がない」という仮説が支持されるかどうかを統計学的にどのように検定するのかである。Stantonによる解説をメインに説明しよう。

 

まずは、よくある「間違った」検定の仕方を紹介しよう。これは、「平均値に差がある」という仮説を検証するのと同じ手順で、帰無仮説のt値など統計値を求めて、それがいわゆる「有意でない」ので、「平均値に差がない」と結論付けるというものである。これは論理的に間違っている。このような間違いを犯す原因は、「有意である=平均値に差がある」「有意でない=平均値に差がない」と安直に理解している点にある。ここで思い出すべきは「帰無仮説」のロジックで、「平均値に差があるか、もしくは平均値に差がない」という状態において、データに基づいて「平均値に差がない」を否定したら、残っているのは「平均値に差がある」というロジックなのである。よって、「平均値に差がない」を否定できていないということは、論理的に導かれる結論としては「平均値に差があるのかもしれないし、差がないのかもしれない」ということなのである。これが「平均値に差がない」という仮説を支持する結論ではないのは明らかである。

 

では本題に戻って、 「2群の平均値に差がない」という仮説がデータから支持されるかどうかを検証するにはどうすればよいのだろうか。論理的に考えると、帰無仮説と対立仮説を入れ替えることになる。つまり、帰無仮説を「平均値に差がある」とし、データからそれが棄却できるのであれば、対立仮説である「平均値に差がない」が支持されることになる。

 

直感的に考えると以下のようになる。もちろん2群の平均を取った場合にそれらが全く同じということはあり得ず、同じ値のように見えても、どんどん虫の目で細かく見ていけば、多少は違いがあるはずである。しかし、仮にそのような微小な違いがあったとしても、それは実践的にも理論的にもほとんど意味のない違いなので、そうであれば、あまりにも些細なことであるので、同じであると見なそう、つまり「平均値に差がある」という帰無仮説を棄却しよう、ということである。2群の平均値の差は、ゼロではなくとも、ゼロに近いと判断するわけである。これは、帰無仮説を100%棄却することなど不可能なので、5%以下の生起確率なのであれば、あまりにも小さいと判断し、(5%水準で)帰無仮説を棄却しようとする態度と類似しており、ロジックとして考えても不自然ではない。

 

それで必要になってくるが、「平均値に差がない」という伝統的な帰無仮説を棄却する際の危険水準(5%や1%)を、「平均値に差がある」 という帰無仮説を棄却する際にはどのようなロジックで設定すればよいかである。これに関しては、「取るに足らない(実践的に意味がないほど微小といえる)」範囲をどれだけにするかを決定することになる。これを、「取るに足らない差の範囲」としよう。そして、その範囲には当然、上限と下限があるので、例えば、平均値の差の確率分布が、95%の確率で上限も下限を超えないことが示せれば、95%の確率で上限と下限の間にあるということなので、その差は「取りに足らないほと小さい(そうではない結論が導かれる確率は5%未満)」とみなすことができるのである。これを示すための方法の1つが、片側検定を2度行う(Two One-Sided Tests) TOST)である。平均値の差が上限よりも小さいという仮説を通常のt検定の方法で片側検定し、同時に、平均値の差が下限よりも大きいという仮説を同じく片側検定する。この2つの検定は、典型的な「ある値(平均値の差)が別の値と(片側方向において)異なる」を検定している。両方とも有意であれば、平均値の差は取るに足らない差であると結論付ける。

 

別の方法としては、平均値の差の信頼区間を求め、その信頼区間にはゼロを含み、かつ「取りに足らない範囲」の上限と下限の範囲内にとどまっているかどうかを調べる。範囲内にとどまっていれば、平均値の差はないと結論付けることになる。これら2つの方法は、統計学においてもいわゆる伝統的な「頻度主義」の考え方に基づくものであるから、基本的な統計を学習している者にとってはそれほど抵抗感なく受け入れられるものと思われる。実際、Stantonによるコンピュータ・シミュレーションでは、頻度主義に基づくこの2つの方法はほぼ同じ結果を導くことが示されたことを報告している。

 

頻度主義とは別の方法として、ベイズ主義に基づく方法もある。これは平均値の差の真の値を確率分布として捉え、その分布を推計することによって「平均値に差がない」という仮説の妥当性を結論づける方法である。Stantonによるコンピュータ・シミュレーションでは、全体としてはベイズ的なアプローチのほうが良好な結果をもたらすことを指摘しているが、ベイズ主義になじみのない場合には分かりにくいかもしれないとのことである。いずれにせよ、「平均値に差がない」「変数間に関係がない」「変数が別の変数に対して効果がない」というような仮説を立て、それを検証する際には、先に挙げたように、有意でない(帰無仮説が棄却できない)ことをもって、差がない、関係がない、効果がないと結論づけてしまう「論理的な間違い」を犯さないように注意することが大切なのと、頻度主義に基づくTOSTや信頼区間を使った方法、あるいはベイズ主義に基づく方法を用いることで検証が可能であることを知っておくとよいだろう。

 

文献

Stanton, J. M. (2020). Evaluating Equivalence and Confirming the Null in the Organizational Sciences. Organizational Research Methods, 1094428120921934.

 

 

 

 

 

経営戦略論で内生性(endogeneity)が大きな問題となるのは何故か

経営戦略論の研究で頻繁に問題となるのが、実証研究における内生性(endogeneity)という問題である。その理由として、内生性は、とりわけ戦略論という経営学の中の1分野が対象とする領域や理論、および戦略論で頻繁に行われる実証研究の方法と深く関連しているという点がある。以下、Hamilton & Nickerson (2003)や、Semadeni, Withers, & Trevis Certo (2014)の論考などを参考に説明する。

 

それではまず、内生性(endogeneity)や内生変数(endogeneous variable)について理解しておこう。外生性を統計学的な視点から一言でいうと、因果関係を検証する際、最小二乗法(OLS)を用いる回帰分析を単純に(y = a + bx + e)とすると、独立変数(x)と予測誤差(e)とに相関がある場合、それが最小二乗法が適切に機能する仮定に違反しているため、回帰係数の推定にバイアスが生じ、正しい結論を導くことができなくなってしまうという問題である。そのような独立変数を内生変数(endogeneous variable)という。そうではない独立変数、すなわち誤差変数と無相関な独立変数は、外生変数(exogneous variable)といい、回帰分析における独立変数が外生変数であることが適切な統計学的結論を導くのに必要だということである。

 

ではなぜ、内生性の問題が、経営学における戦略論でとりわけ重要となるのか。それには、戦略論が対象とするリサーチクエスチョンや回帰分析を中心とする実証研究、そしてモデル化する際に用いる変数と大きな関係がある。まず、戦略論の中心的なリサーチクエスチョンをもっとも単純化していうならば、企業による「戦略的な意思決定」が「企業業績」に影響を与えるかどうかという「因果関係」に関するものである。つまり、企業業績を従属変数(y)、戦略的意思決定を独立変数(x)とする因果関係を理論的かつ実証的に解明したいということである。例えば、事業の多角化は企業業績を高めるのか、グリーンフィールドによる海外進出が、企業買収による海外進出よりも企業業績を高めるのか、といったような問いで、これは、経営者による多角化やグリーンフィールド投資という戦略的意思決定が企業業績を高めるのかという因果関係に関する問いとして解釈できる。

 

ここで、因果関係を実証的に解明したい場合の方法について説明しよう。因果関係を検証するうえで一番理想的なのが、ランダム化実験である。例えば、独立変数(ここでは単純に二者択一とする)が従属変数に与える因果関係を検証するには、サンプルを実験群と対照群にランダムに配分し、実験群にのみ、独立変数に相当する処置を施し、その後、実験群と対照群とで従属変数の値を比較すればよい。 これは原理的に、実験者が独立変数を操作していることを意味しているので、ランダムサンプルであることを考えるならば、独立変数は真に独立であって他からシステマティックな影響を受けていない。つまり、厳密な実験によって操作した独立変数は外生変数だと考えることができる。

 

しかし、戦略論が明らかにしたいとしている戦略的意思決定が企業業績に与える影響に関する因果関係については、上記のようなランダム化実験を行うことが現実的でないという技術上の問題のみならず、戦略論で構築する理論的性質において大きな問題を孕んでいるために、原理的にランダム化実験がそぐわないという性質を持っており、戦略意思決定という独立変数が原理的に独立でなくなってしまう(すなわち内生性を獲得してしまう)ということが起こるのである。 

 

思考実験をしてみると良い。仮説が「多角化は企業業績を高める」とし、多角化を二者択一の変数としてランダム化実験が技術上可能だとする。そうすると、多角化していない企業を、多角化を行う条件と非多角化を維持する条件にランダムに分け、数年後の企業業績を比較するというような実験が可能であることがわかる。しかし、それで本当に戦略論の研究といえるのだろうか。実際の経営では、企業が多角化をするかしないかの意思決定をするということは、それが企業業績を向上させるという予測ないしは確信があってのことであり、上記の思考実験でやったように、サイコロを振ってランダムに多角化か否かを選んでいるわけではないのである。もしそのようなやり方で意思決定をしているのであれば、それはもはや「戦略的な」意思決定ではなくなってしまう。

 

つまり、戦略的意思決定というのは、本質的に、それが企業業績を高めるだろうという経営者の予測であったり期待が反映されているものであり、その予測や期待の根拠となっているものは観測が難しいため、実証研究にはたいてい含まれていない。よって、研究上仮説として設定する変数、先の例でいえば「多角化するか否か」は、本質的に、外生変数(exogneous variable)すなわち因果関係の起点となる独立変数なのではなく、なんらかの他の変数(企業業績を高めるという予測)から影響を受けている内生変数(endogeneous variable)である可能性が高いといえるのである。すでに企業業績を高めるという勝算を持っている企業のみが多角化をしている(よって多角化が企業業績と相関している)という状況では、(他は全く同じ条件で多角化か否かのみが異なるのではなく)サンプリングにおいて自己選択がなされておりランダム化が実現していないので、予測誤差は多角化と無相関にはならず、なんらかの相関がでてきてしまう。

 

上記の例は、戦略論の実証研究において、観測されていないが決定的に重要な変数がモデルから省略されているために、測定された変数のみで構成したモデルの結論が間違ってしまう可能性を示した例である。具体的にいえば、戦略論で支配的なOLS回帰分析において内生性が発生することにより、独立変数の影響すなわち回帰係数が適切に推定できず、真実では効果がないのに誤って効果があるという結論を出してしまう可能性(第一種の誤り)などがあることを示している。これは学問上無視できない問題であることは明らかである。

 

なお、内生性の問題が起こる原因は、上記のような省略変数(独立変数と従属変数の両者に影響を与える第三の変数)のみではなく、戦略論研究とも深く関わる別の問題もある。その1つは、測定誤差の影響である。つまり、真に測定したい変数が正確に測定できていないことに起因する誤差が、内生性を生み出す原因として働くことがあるということである。例えば、戦略論では、公開されている統計データなどを用いることが多いが、その統計データの作成過程で正確性が失われている可能性もある。別の原因として、独立変数と従属変数の因果関係が両方向にあって循環しているようなケースである。例えば、多角化が企業業績を高め、企業業績がさらなる多角化の要因となっているような場合である。これらのケースでも内生性が発生し、OLS回帰分析では適切な結論が導かれなくなってしまうので、実証研究では、これまで見てきたような内生性の問題を検出し、修正するというプロセスが必要不可欠である。

 

もし経営戦略論の研究において、内生性の可能性を無視した研究が行われ、蓄積されるならば、誤った結論が分野内に蔓延することにつながり、経営戦略論という知識体系自体が崩壊しかねないのである。よって、経営戦略論の研究では、実証研究において、内生性のチェックと、内生性が存在する場合の修正が半ば必須となっているのである。

文献

Hamilton, B. H., & Nickerson, J. A. (2003). Correcting for endogeneity in strategic management research. Strategic organization, 1(1), 51-78.

 

Semadeni, M., Withers, M. C., & Trevis Certo, S. (2014). The perils of endogeneity and instrumental variables in strategy research: Understanding through simulations. Strategic Management Journal, 35(7), 1070-1079.